陸前高田市を訪れて・上の続き。小友中学校を訪れた神戸大生のボランティア、避難所付近でのインタビューなど。(記者=田中郁考)【5月8日 神戸大NEWS NET=UNN】
ボランティアは午前11時過ぎ、5台の大型バスに乗って訪れ、校庭や校舎内の整備などを行った。神戸大生は10人ほど。彼らについて、校舎内に入った。一部に外から流れてきたであろうゴミや泥水が残っていた。
神戸大生は図書館の本を運んだりしていた。私語もなく淡々と作業を進める。作業中に彼らに話かける私はあきらか邪魔者。が、神戸大生はおおむねよく質問に答えてくれたので少し安心した。「神戸出身で(阪神淡路大震災のとき)知らない間に助けてもらった。僕も何かしたいと思った」と話す男子学生がいた。私は勝手に嬉しかった。
我々は正午に神戸大生の取材を切り上げ、陸前高田の町をまわることにした。5階建てマンションの4階まで窓が破れており、5階の窓はきれいに残っていた。津波の高さを物語る。車を降りて、歩いてみると、それまで「がれき」と称していたものが、住人にとっては「生活」の場だったという当たり前のことに気づく。家を組んでいた材木の隙間に、茶碗やスプーン、上着、雑誌などが見える。津波は一帯の日常生活をまるごと飲み込んでしまったようだ。
避難所となっている陸前高田市第一中学校付近で行きかう人に話を聞いた。仮設ローソンの前、避難所に住む高齢の女性はこう話した。「避難所ではみんなイライラしていて、夜中に叫びだす人もいる。避難所(となっている第一中学校)では授業も始まって肩身が狭い。今はとにかく住む所が欲しい」。笑顔の隙間に疲労がにじむ。また、タバコ屋の店主はこう話す。「10年分の人が地震から2週間で訪れた。たばこがぜんぜん足りない。自衛隊やボランティアなど支援に来てくれた方にたばこを出せないのが悔しい」。一方で、「僕はただの旅人。被災地を見に来ただけ」という若者もいた。関西で「被災地」とひとくくりしていては、見えてこない実情に触れた気がした。
日が沈んでくると、少し高いところにあり無事だった家々から明かりが漏れた。普通に洗濯物も干されている。わずかの差を境に、はっきりと生死が分かれたようだ。夜中、福島まで戻った。翌4日に車を返して、新幹線で新大阪まで戻った。わずか3日間だが、非常に長く感じた。
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