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【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん=父・弘さん、母・綾子さんの証言=(当時工学部建設学科3年/軟式野球部/静岡県立浜松北高校卒)<後編>
鈴木伸弘さん(当時工学部建設学科3年/軟式野球部所属)は、神戸市灘区六甲町2丁目の西尾荘1階に住んでいた。
阪神のファンだから、近くにいきたいと神戸大への進学を目指した伸弘さん。一年浪人して工学部に合格した。
合格発表のあと、綾子さんと下宿選びをしに神戸に。ほかと迷うことなく、灘区六甲町の西尾荘を選んだという。父・弘さんは、2年になるときと3年になるときに、鉄筋コンクリートの下宿に移ったらどうかと勧めたが、部活も忙しいし、学校の課題もあって、時間もないので「いい。ここのままでいい」と、伸弘さんは西尾荘を離れることはなかった。
取材班は、静岡県浜松市の実家を訪ねて、父・弘さん(78)、母・綾子さん(77)にお話をうかがった。
【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん(当時工学部3年)<前編>
野球が好きで、阪神ファンで
ききて)大学で軟式野球部に入部したっていうことは、もっと前から野球が好きだったんですか?
母・綾子さん)そうですね。
父・弘さん)そう。小学校のときにはソフトボールでね。ここらの地区大会で、優勝したんですよね。
母・綾子さん)一番の元は、幼稚園のときに、あの数字を覚えて、123で「2」を覚えて、2が好きになって。田渕(幸一)選手、キャッチャーですよね、阪神の。(背番号が)22で。それで好きになっちゃってね。野球が大好きで、阪神ファンで、自分でゲームも、選手の名前書いて1人でゲームやったりね(笑)、幼稚園くらいからやってました。だからいまだに…ずっと、テレビで阪神がいまやってるよって言ってね、テレビつけてあげたりとか。
父・弘さん)中学に入って、野球部、軟式野球ですよね
父・弘さん)高校行って、硬式もあったですけど、勉強も忙しいってことでね、軟式入ったんですよね。
ききて)野球の他にも、スポーツが好きだったんですか?
父・弘さん)そうなんですよね。野球が休みだと言うとサッカーの試合があるで人数足りんで来てくれって、ひっぱり出されちゃって。そのサッカーやったときの写真も多かったですけどね。
母・綾子さん)運動好きみたいね、手がかからなかったね。
(写真:軟式ボールには友人の寄せ書きがある。震災10年の日付も)
写真に写るときはいつも端から2番目
父・弘さん)そのあと思うんですけどね、あの写真撮ったりして写ったりしてるんですけどね、2番目に位置してるんですよね。よっぽど2が好きかなと思ったりしてね(笑)。
母・綾子さん)それはわかんないねえ(笑)
父・弘さん)うん、それはわかんないですけどね。ほとんど2番目にいるんですよ。神戸大学入ったのも、建設学科ですけどね、集合写真が…クラスの写真なんですけど、それも2番目に立っているんですよ(笑)
阪神のそばに行きたいと、浪人して神戸大工学部に進学
ききて)神戸大学を選ばれたのも…
母・綾子さん)やっぱりその阪神のファンだから…近くにいきたいって。
父・弘さん)だけど1年浪人して、もう1回、神戸大学に挑戦するということで。
ききて)浪人しても…やっぱり神戸大学って決めてたんですね。
父・弘さん)3人ね、北高から受けて、ほかの2人も、もう一度神戸大学を受けるっていう。それもあったもんですからね。伸弘も影響を受けて。まあ自分も向こう(神戸大)行きたいのもあったし、友達の影響もあったし。
ききて)浪人してでも行くぞと。
(写真:大学では軟式野球部に所属した。)
建築系を選んだのも父の跡を継ぐため
ききて)やっぱり工学部の建設・建築系を選ぶというのも、やはりお父様がそういうお仕事だからっていう理由だったんですか。
父・弘さん)それはねえ全然聞いたこともないし勧めたこともないしね。
母・綾子さん)こっちでね跡継ぎなさいとか言ったわけでもないけど、卒業して帰ってきたら跡を継ぐと、自分でそう考えてたみたいで
引っ越すように勧めたけれど、西尾荘は便利で…
ききて)神戸に住んで下宿しなきゃいけないですね。住むところは、どうやって決めたんですか?
母・綾子さん)主人が会社やってるから、なかなか忙しくて行けなくて、私と2人で行ったんです。それで不動産とかちょっとよくわかんないけど、学校へ2人で行って紹介していただいて、こういうところに(学生が)入ってますよっていうことで、そこで決めたんですけどね。ほかも見た覚えなくて、いきなり西尾荘さんが空いてるってことでそれで決めたですね。
ききて)西尾荘には、神戸大生も毎年何人か入居していたわけですよね。
母・綾子さん)そうですね。
ききて)なら安心して、そこに決めますよね。
母・綾子さん)本当に私たち分からないですからね。学校も近いし、買い物…こちらに市場もあるし、お風呂も部屋にはなかったですけど、すぐ近くに銭湯があって、住み良いところでした。
ききて)便利なとこだし…。
母・綾子さん)そうそう、それはね。
父・弘さん)2年になるときと3年になるときに、他に移るように勧めたですよね。もうちょっといいというか、鉄筋コンクリートの…。
母・綾子さん)主人と探しに行けばあれだったかもしれないけど、全然私もわからないし、学校で紹介してくれるところでっていう…。
父・弘さん)でも(伸弘が)忙しくて、部活も忙しいし、学校の宿題もあって、図面とかあるので、面倒くさいし。時間もないので「いい。ここのままでいい」と。
母・綾子さん)自分も満足してたと思うんですよね、住みよくて良いっていうふうに。
ききて)足まわりもいいですよね、あそこからだったら。
(写真:西尾壮の廊下で友人と。 1992年5月14日撮影 画像の一部を加工しています)
神戸で買ったバイクは焼け残った
母・綾子さん)オートバイが欲しいって。そうそう。(バイクは)向こう(神戸)で買ったんだよね?
父・弘さん)野球部の遠征とかあって、みんなの道具も積んだりなんて、先輩の方もびっくりしてましたけどね、こんなとこまでオートバイに積んできたのかとかって、そのためにもオートバイが欲しかったんだと思います。
母・綾子さん)それ(バイク)は、残ってたのね、火事になっても。
父・弘さん)(焼けたのは)道路までで。建物で神風が吹いたんじゃないかって。こっちに戻ったって、火が。そっちは全然延焼してないですよね。向こう側は。
ききて)焼け止まりみたいになっていた?
父・弘さん)そう。不思議だっつってね。
母・綾子さん)通路より手前に西尾荘の空き地というか、自転車とか置いたりするようなところがあって、そこに置いてあったオートバイは、友達が…。
父・弘さん)後で送ってくれたですけどね。ヘルメットと。
母・綾子さん)それでうちに(浜松に)持ってきて(父親が)乗ってましたよね。
(写真:自宅に飾られている小学校時代の優勝盾)
同じ西尾荘で亡くなった中村公治さんのお母さんとは交流が続いている
母・綾子さん)先日も中村さんと会ったんですけどね。あの方とは食事したりね。中村公治さんのお母さんと…。
ききて)この間っていつごろですか。
父・弘さん)1週間くらい前。
母・綾子さん)そうか火曜日だったかな、行って会って。豊橋で。もう前からずっと。会って食事して、それぞれのお話したりして。
ききて)中村さんのお母様とは時々お会いになるっているんですね。
母・綾子さん)まあ境遇が一緒だから、気持ちも一緒だし。でも、子どものことに関してはあまり話ししないですね。ただ、普通の自分たちの生活の中のこと、そういうお話で、あまり触れないというか、そういうことが多いでしょうか。
神戸に出かけると、六甲道でお花を買って慰霊碑へ
ききて)今年1月、ご夫婦で神戸に来られた時はどのようにすごされましたか?
母・綾子さん)途中でお花を買って。六甲道で。で、大学のね、(名前が)書いてあるところへ。
ききて)慰霊碑の銘板ですね。
母・綾子さん)ええ。銘板にお花をささげて。それから今度は三宮に行ってね。あそこにも(銘板が)ありますよね、東遊園地の「慰霊と復興のモニュメント」。それはずっと行っていますね。
軟式野球部の仲間がよく集まる部屋だった
父・弘さん)(「聞き語り調査会」の報告冊子の西尾荘の写真を見ながら)どのへんに住んでた?
ききて)これは聞き語り調査会のまとめた冊子ですね。
母・綾子さん)はい。
ききて)工学部の調査でしたね。
母・綾子さん)そうですね。調査員。先生かな。
ききて)調査員は、大学院生ですね。
母・綾子さん)学生さんだったんだ。
父・弘さん)(アルバムを見ながら)この写真も載せてくれたんだ。
母・綾子さん)これが成人式で帰ってきたところだよね。そのぐらい貴重な。写真といったらこの写真しかないですね。
ききて)(西尾荘の間取りが示されたページを見ながら)これは間取りの図面ですね。
父・弘さん)うん、伸弘の部屋。
母・綾子さん)(部屋の間取り図を指さしながら)、ここで寝てて、玄関はここで。ベッド…。よくお友達、野球部の友達はね、学校からね。その子たちは他から通ってるから。(西尾荘は)学校から割と近くて。みんな寄ってくれたみたいで。
母・綾子さん)うちでも実家の方でみかん作ってて。「みかん、すぐになくなっちゃった」って言って。「また送ってほしい」って言う。
ききて)お友達がいっぱい来るアパートだった?
母・綾子さん)きっとそうだと思う。
(写真:工学研究科の大学院生がまとめた「震災犠牲者聞き取り調査会」の記録を見ながら)
妹や弟も焼け跡で手を合わせた
母・綾子さん)(写真を見ながら)これは親戚の人たちと、娘と弟もいますけど。あと主人のお姉さんや実家の母。
父・弘さん)9人で。2月11日に撮った。
母・綾子さん)(震災から)およそ1ヶ月後…。
ききて)そうですか。
母・綾子さん)(西尾荘は)学校でね、紹介してくれて。あと何軒かあったけど、一番いいかなと。あちこち探すのはちょっと大変だったし、一番使い勝手がいいかなと思って。
(写真:妹・弟や親戚が、西尾荘の焼け跡で手を合わせた。 1995年2月11日撮影)
アルバイト先の飲食の賄いがおいしいって
父・弘さん)アルバイトもしていたんですよ。
ききて)何をなさってたんですか。
母・綾子さん)食べ物屋さんだったら、賄いも出るし。いいんじゃないのって言って。
父・弘さん)「マイケル・ジェーズ・グラン」。1回食べに行ったよね。お礼がてら。六甲道の辺だったよね。
母・綾子さん)そこにお勤めされていた方、うちに来てくれたね。
父・弘さん)7人だか…。
ききて)バイト仲間ですね。
母・綾子さん)そうですね。
父・弘さん)賄いが一番おいしいって。大したもの食べてないんで。
(写真:アルバイト先での鈴木伸弘さん)
焼けた野球のユニフォーム 先輩が作り直してくれた
父・弘さん)先輩の方が、ユニフォームを…(指さしながら)。
ききて)お部屋にありますね。
父・弘さん)焼けちゃってないもんで。形見で残らなかったので。先輩の方がミズノに特別に頼んで作ってもらったって。持ってきてくれたんですけど。
母・綾子さん)野球部の。
父・弘さん)野球部の先輩の方がね。本当に嬉しかったね。
ききて)じゃあ、同じデザインのを作ってくれたんですね。
父・弘さん)持ってきてくれたんです。本当ありがたかったですよね。本当になんにもないもんね。
ききて)焼けてしまっているからないんですね。
父・弘さん)そうです。グローブとかもないしね。
(写真:火災で焼けて残らなかったため、先輩が新たに作って贈ってくれたユニフォーム。)
後に伝えてくれるということは本当にね、うれしいことです
ききて)慰霊碑が、六甲台本館の前庭にありますよね。
母・綾子さん、父・弘さん)(うなずきながら)ええ。
ききて)最初は、友人、先輩、後輩が手を合わせに来られていた。でも、20年経ってしまうと、現役の学生たちがほとんど来なくなっていたんですよ。(震災から)25年がちょうどコロナに入る直前のときで、そのときに「もっとみんなに慰霊碑行こうよ」と、学生たちが呼びかけて。そのときに軟式野球部の部員たちが慰霊碑に来てくれました。
母・綾子さん)女の子。
ききて)4年生で引退したけど、という主将とマネージャーが、お母さん(綾子さん)と立ち話されましたよね。後輩たちがあそこへ来てくれた。
母・綾子さん)そうですね。声かけてくれて、本当に良かった。
ききて)震災があったこと自体を忘れたり、あるいは慰霊碑があることもみんな忘れかけていたんですけれども。やっぱりそれでいいのっていう声もあって、あの震災25年のときにはね、みんなあそこに来たんです。
母・綾子さん、父・弘さん)うん。
父・弘さん)その後もいろんな災害が起きてね。阪神大震災の関心がだんだん少なくなってきてしまっている中ですけどね。皆さんがこうやってね、聞いて後に伝えてくれるということは本当にね、うれしいことですので。ありがたく思っています。知っていてほしいですよね、やっぱり。
(写真:成人式のスーツ姿の鈴木伸弘さん 1993年1月15日撮影)
この大学の学生が亡くなったことを、伝えてほしいですよね
母・綾子さん)私達ができるだけ伝えて。いつまでも、先輩たちのことを覚えていてほしいなと思いますね。
父・弘さん)風化させないように、皆さんに語り継いでもらって、こういうことがあったっていうことね、新しく大学に入ってきた方々にも伝えてほしいと思います。
母・綾子さん)1月17日、大学で(式が)ありますね。
ききて)お昼に慰霊の献花式があります。
父・弘さん)今度は震災から30年だし、参加させてもらおうかなと思っているんですけどね。これからも続けては欲しいですよね。
父・弘さん)この大学に来てた学生が亡くなったっていうことを、あとあと入ってくる新しい方にもね、伝えてほしいですよね。あの碑を見ればね、わかるように伝えて欲しいですね。
<2024年10月20日取材/2025年1月8日 アップロード>
(取材:蔦旺太朗、熊谷孝太/奥田百合子、佐藤ちひろ、笠本菜々美)
【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん(当時工学部3年)<前編>
【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん(当時工学部3年)<後編>
了