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- 上野政志さん講演会「生きてこそ~1.17を忘れない」 震災から30年
1月16日、灘区民ホール(神戸市灘区)1階会議室で上野政志さん(77)による講演会「生きてこそ~1.17を忘れない」(神戸大学生震災救援隊=主催、被災地に学ぶ会=共催)が行われた。震災で上野志乃さん(当時神戸大発達科学部2年生)を亡くした父親の上野政志さんが、震災当時に感じた思いやその後の苦難を語った。<蔦旺太朗>
(写真:講演中の上野さん。1月16日20時40分撮影。灘区民ホール1階会議室で)
震災が起こった1995年1月17日の前日の夜、志乃さんは友人2人と「10年後の3人の住居」という大学の課題に取り組んでいた。翌日の午前5時ごろまで取り組んでいたが、その直後の5時46分に被災した。
「瓦礫をのけると、娘の足を見つけた。本当に冷たかった。王子スポーツセンターへ遺体を運んで検死を待っていると、事件に巻き込まれた遺体が裸のままで運ばれ、母親が「うちの娘はモノか」と怒りを訴えている様子を目にした。私も同じような気持ちだった」と当時の悲惨な状況を語った。
講演の序盤には、事件や災害により若くして亡くなった子供たちの事例を挙げ、逆縁(親が子の死を弔うこと)によって混乱し、喪失感を覚える心理状況を説明した。「時間はちっとも解決をしてくれない。死ぬまで背負っていかなければならない」と苦しみを語った。また、ドイツ人哲学者のアルフォンス・デーケンが提唱した、12段階の「悲観のプロセス」を紹介し、この考え方を知った時には「これが正常なんだと、少し落ち着くことができた。今では10の諦めと受容の段階にはいってるんじゃないかと思う」と話した。上野さん自身は過去や未来ではなく、今を大切にするという意味の「而今(じこん)」という言葉を大切にしているという。
東日本大震災での「楽観的バイアス」により被害が拡大した事例を紹介し、過去の災害を教訓に危機管理意識を高め、発生時に迅速に対応することの重要性を語った。
(写真:講演を聴く参加者たち。1月16日18時39分撮影)
上野さんは志乃さんとの思い出を語り、様々なエピソードが紹介された。「無口でおとなしかったが、自然と人がそばにやってくるような優しさのある子だった。物を作ったり、表現したりするのが好きだった」と志乃さんの人柄を語った。
また、生前作成したパラパラ絵本「空を泳ぎたかった魚の話」から、「家族を大事に思い、自分も明るい家庭を築きたいと思っていたのではないか」と話す。
講演の終了後は参加者同士のグループトークが行われ、講演を聞いた感想を共有した。ボランティア活動を行う団体同士が被災者との関わり方を議論する場面も見られた。
志乃さんと同い年であるという被災地に学ぶ会代表の藤室玲治さん(震災救援隊OB)は「上野さんとは十数年のお付き合いになった。以前の上野さんのお話は、感情を露わにして激しい調子になることもあったが、だんだん穏やかになっていったかなと思う。(聞き手としては)人生のライフステージが変わるとともに受け止め方が変わると思っている。志乃さんを思い出すきっかけとして来年も行おうと思う」と話した。
東日本大震災と原子力災害による被害と地域の現状を伝える活動をしている大熊未来塾で代表理事を務める木村紀夫さんは、「私も東日本大震災で被災して娘を亡くした。上野さんのお話を聞いて共感し、それと同時にすごく癒された」と感謝の気持ちを述べた。
(写真:講演会終了後の記念撮影。1月16日20時50分撮影)
了
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