【震災の日の神戸大は…】 3 工学部1年生の見た震災… 近藤民代さん(都市安全研究センター教授)の証言 <前編>

阪神・淡路大震災の激震に見舞われた当時の神戸大生は、何を目撃し、何を感じたのか。
 都市安全研究センター教授の近藤民代さんは、当時工学部1年生だった。インフルエンザにかかって、東灘区御影山手の下宿を離れ、滋賀県の実家で寝ていた。近藤さんに、被災した街にどう向き合い、何を胸に刻んで学問の道を歩んだのかを聞いた。

<2024年12月11日に、ニュースネット委員会主催の震災30年トークセッション「工学部一年生が見た阪神・淡路大震災」が工学部C2棟201教室で行われました。『NHKラジオ深夜便』の収録も行われ、同番組の住田功一さん(経営1983年卒)が近藤教授と語り合いました。その内容を再録します。>

近藤民代さんの証言<後編>= https://x.gd/ogP8K

(写真:工学部の教室で行われたトークセッション 近藤民代教授=右=とラジオ深夜便の住田功一さん 2024年12月11日午後 神戸大学工学部C2棟201教室で)

ききて 住田)神戸大学都市安全研究センターの近藤民代教授はこの神戸大学の出身です。専門は何とご紹介すればいいですか。

近藤)建築都市計画。建築の単体の性能を安全にするということと、建築が集積して集まったときにできる街をどのように安全にしていくかということをやっています。でも入学したときは建設学科なので、普通に建築士になろうと思って。家を作る、建物を作る。そうです。住宅というのが一番具体的なイメージにありましたけど、工学部では何かものを作りたいと思って、大きいものを作りたいというのが最初の動機でした。

(写真:トークセッションのポスター=左=と、使用された写真 鶴甲から工学部キャンパスを望む さらに向こうの市街地では煙が立ち上っている 1995年1月17日朝、柴藤哲也さん提供)

ききて)30年前の阪神淡路大震災では、実は近藤教授は一人の学生としてこの大学に在籍していたということで、その地震の後何を目撃されたのか。そしてその後の研究テーマをどう見つけてこられたのかということもうかがっていきたいと思います。

ききて)まずは、今皆さんの前にあるポスターの写真なんですけれども、この写真は鶴甲から撮影された写真です。ちょうど煙が見えますけれども、手前が工学部の建物です。ちょうど私たちのいるこの建物。その向こう側の街の中から煙が立ち上っているという、そういう写真。これはたまたま市民の方が撮った写真なんですね。
手前に鶴甲第1キャンパスがあって、工学部の建物が並んでいて、ちょうど向こう側が地図で見ますと六甲道のあたりから立ち上る煙。右側には丘の上に大学の本部棟も見えています。
この朝どんなことがあったのか。私は取材者としてこの地震に出会ったんですが、近藤先生はどんなふうにこの地震に遭遇したのでしょうか。
1年生の終わりに、ちょうど1月ですから学年末ですよね、近藤さんは揺れたとき、どこにいたんですか。

近藤)私はたまたま滋賀県の実家にいたので、震度4ぐらいですよね。でも下宿してたので…。
ききて)どこに下宿されてたんですか。
近藤)御影山手です。阪急の御影駅のちょっと山側。だから被害で言うとだいぶ少ないところですね。

ききて)山の地盤でしたね。
近藤)そうですよね。インフルエンザにかかって(実家で)寝込んでたので、すごく揺れたなって思ってたんですけど、別にそれでどこで揺れたのかっていうことも気になるわけもなく寝込んでたんですけど、そのうち母親が、神戸が大変なことになってるよって言いに来て、それで初めて知った。
ききて)その後テレビのニュースなどでどんな映像を見ましたか。

近藤)本当にいつも通っている、駅舎が倒れた駅、JRの六甲道駅がコンコースが押しつぶされて。
ききて)高架の線路が落ちてきている、橋桁が落ちてきている状況ですね。

(写真:JR六甲道駅 1995年1月18日撮影)

近藤)だから一番自分が通っているところが激震地なんだってことが、初めて分かった。
ききて)ニュースで分かったと。もう一枚の写真、六甲道駅のすぐ近くの住宅の写真なんですけども、1階が押しつぶされまして、2階がどさんと落ちてきている木造家屋。こういう住宅が震災直後多かったですけれども。

ききて)近藤さんは滋賀で高熱でインフルエンザで寝ていて、神戸にやってきて神戸の街を見るのはいつ頃だったんですか。

(写真:倒壊した住宅 1995年8月灘区備後町で撮影)

近藤)10日後ぐらい。鉄道は西宮ぐらいまで通じてましたかね。そこからバスを乗り継いでどこかで降りて、そこから大学まで30分ぐらい歩いていきましたね。
ききて)いつもならば、すぐ電車とバスで行けるところが。
近藤)そうですね。
ききて)その時の街並みはどうでしたか。
近藤)電車の窓から見えている風景は今でも覚えているんですけど、被害がまだらな状況で壁が全部落ちて断面が見えるというか、スラブとか柱とか見える。リカちゃんハウスみたいな、リカちゃんハウスってわかるかなみんな。パカッて開けて断面が見えて。その人たちの住まいの家具も見えるし、その状態はすごく覚えている。それは今でも焼き付いていてどこの風景だったか覚えてないんですけど、音もあんまり覚えていなくて、その無音の絵だけ覚えています。

ききて)その家や建物を作ろうとして大学で学んでいらした先生が、家が崩壊しているのを見るというのはどういう気持ちだったんですか。
近藤)いやこんなにも壊れるのかと思いましたね。そんなに壊れたものを見たのは初めてだったので。

(写真:トークセッションの会場)

ききて)マンションも1階が座屈して崩れてしまったりとか、街中のあちこちに点々とあったわけですけれども。
次の写真をちょっと見てみましょうか。これが神戸大学の本部に行って私写真撮ってきたんですけれども、もう本部は大変な状況で、各学部で安否確認をして、そのまとめが本部に上がってくるというような状況で、皆さんも疲れ切ったような職員の皆さんもそういう状況でした。

(写真:神戸大学本部の様子 1995年1月28日 ニュースネット撮影)

当時の鈴木学長も疲労が滲んだようなそんな顔でしたね。
そしてこれは、学内で撮ったスナップです。これは六甲台の本館で1月19日から27日まで、つまり地震の2日後以降ですね。19日から27日まで経済学部の全講義を休校とする。論文の提出は31日までと書いてあります。

近藤)本当ですか?
ききて)経済学部の授業と期末試験については1月31日午後2時から説明会を行います。登校困難な人には後日郵便でお知らせしますということで。これ学生への連絡も大変だったみたいですね。

(写真:神戸大学六甲台本館 1995年1月27日 ニュースネット撮影)

近藤)私、だからこの時に来たんですね。初めて。つまり集まりなさいという1月末、そう。招集かけられて。1月の31日でした。工学部の説明会。

ききて)工学部31日に集まってどんな話があったんですか?
近藤)全く覚えてないです。友達が生きているかどうかも分からないので、その時に集まって友達と何をしゃべったか覚えてないですけど、しゃべったということは覚えてますけど、大きな教室に501ですよね。それを覚えてるんですよ。何かの説明がされた。
ききて)きっと混乱もあったでしょうし、場合によっては亡くなっている学生さんも全学で39人いたわけですから。

(写真:自衛隊の前線基地になった神戸大学六甲台グラウンド 1995年1月27日 ニュースネット撮影)

ききて)これ、六甲台グラウンドです。自衛隊が前線基地になって、これはこの奥に見えています当時の発達科学部、昔の教育学部ですが、そこのグラウンドにもずらっと自衛隊が来て、ここから救援、救出に向かうという基地になっていました。

ききて)そしてこれは工学部の写真が1枚あります。工学部の掲示板。おそらくこれは学生の名前が貼り出されて、安否を確認しているんですが、当時の先生が今いらっしゃるのでちょっと待ってください。マイク持っていきますよ。

(写真:工学部で 1995年1月27日 ニュースネット撮影)

会場の工学部関係者)うろ覚えですけど、名前を貼り出して、この人に会った時は丸とか、大丈夫やでという噂を聞いた時は三角とか、そういうふうなことをしないと全く連絡の取りようがないという話ですよね。それでやっていたんだと思います。
ききて)ということは学生の安否確認ボードみたいな。

会場の工学部関係者)そうですそうです。震災の時って、先ほど壊れた家がありましたけど、私ここにおりますって家に書いておくと結構連絡が取れるんですよ。そうでもしなければ連絡の取りようがない時代でしたから。今だったらネットとか携帯がありますけどね。
ききて)私はこの時は取材者で取材しながら神戸大学に来たんですけれども、各学部の先生方は全く憔悴しきっていて、特に教え子を亡くされた先生が大変つらそうでいらっしゃいました。ある先生は分担してつながる電話をかけていって、実家にも電話をかけていったけど、ちょうど今、お通夜ですって言われて…。それはショックだったと思いますね。先生にとってはね。
工学部は実は39人全学で亡くなっているうち10人が工学部の学生でして、当時の建設学科の学生さんも2人亡くなっていますね。

(写真:国際文化学部の武道場で 1995年1月27日 ニュースネット撮影)

ききて)これが国際文化学部、現在の鶴甲第一キャンパスの武道場ですけれども、あそこの体育館も武道場も避難所になりまして、ダンボール箱がずらっと並んで仕切ってありまして、皆さんそこに布団や毛布を敷いて避難されているという状況です。ですからこの神戸大学も避難所にもなり、そして学生も犠牲者が出るという中です。今、近藤先生は教員という立場ですけれども、自分の教え子がっていうのはちょっと想像できないですね。
近藤)そうですね。

ききて)そういう状況にこの大学はなったわけですけれども、近藤先生は、当時の建設学科、建築系の学生さんでいらっしゃった。すぐに学生たちの間で被災した住宅を調べようという動きもあったんですか。
近藤)そうですね、建築の学会だとかが、どれだけ被害を受けたかということが復興計画の基礎になるので、呼びかけがありましたね。

ききて)そこにボランタリーに志願して多くの学生が被災地の住宅の壊れ方の調査を調べるわけですが、その時は近藤さんは?
近藤)私は参加してないんですよ。でも同級生から電話がかかってきて、その時どうしようかなって悩んだことは今でも覚えてます。
ききて)悩んだ、行かなかったというのはどういう?

近藤)怖かったし、家でたまたまその時に寝てたから。滋賀県にいたから。それでしばらく被災の状況がテレビの映像で入ってきますよね。私も見ていて、母親も一緒に見ていて。両親がここにいてくれてよかったってその時言われてね。まあそうだろうなと思って。それも聞いてるし、それを振り切っていくっていうのもちょっとつらいなと思ったり。でもやっぱり怖かったっていうのが一番ありますね。だから私はそこに行かなかった。怖いっていうのは…だっていつまた揺れるかわからないし、その10日後に行った時に道が道じゃない状況で建物が崩れてる。崩れかけてるところをなんか間を縫うように歩いていて、あんなこと今したらダメだったと思うんですけど。あの風景を覚えているので、あの中で調査っていうのはちょっと怖いなって思った。

近藤)でも悩みましたよ。どうしようかな、でも「ごめんやめとくわ」ってその同級生に言いました。

ききて)関西のいろんな大学の建築系の学生がボランティアで手を挙げて調査に動いたって話を聞いてますけれども。今、怖いという話がありましたが、私も取材者として被災地にいて、すごい緊張感で仕事しなきゃっていう時は、怖さを感じないんですけど、ふっと気が緩んだ時は、次は自分が新聞に名前乗るかもしれないっていうね、そういう怖さ。明日はわからんっていう、そういう気持ちがありましたよね。
近藤)外にいてその揺れを知らずにその後もいなかったので、余計怖く、もしかしたら感じたかもしれない。もしその時に御影の下宿にいて、やろうっていうふうになってたら、もしかしたら行ったかもしれない。でもまあ母親が言ったからというか、人のせいにはしたくないなって今でも思ってて。今となると、なんで行かなかったんだろうなっていう後悔はあります。それは毎回思い出すのが嫌なくらい。

ききて)同じ学部・学科の先輩も亡くなってます。つまり言ってみれば友達の友達、先輩の友達、たどっていけばそういう人が亡くなっているわけですよね。
近藤)そうですね。だからその直後ぐらいにはあんまり誰々が亡くなったとかっていうのは、あまり情報が入ってこなかったんですけど、しばらく経ってから、先輩に「僕の同級生亡くなっているよ」って言われて。

ききて)直後の1月の下旬に集合がかかって、この後どうやって授業を再開するのかというふうに大学も模索しながら説明をするわけですけれども、大学生活はその後どういう状況でした? 御影の下宿に戻ることができたんですか?
近藤)いや、ライフライン戻ってないので…。4月から授業を再開しましたよね。その時には戻ってきましたけど。だから私、その2か月何してたんだろうって。それも思い出せない。あんなに暇やったのにちゃんとまともなことをしたらよかったなと思いますけど。でも試験もしてないですよね。

ききて)あの時は、たぶんレポートにしたんだと思います。
近藤)レポートを出した覚えもないけど、全部「優」だったことだけ覚えてる。だから何も出してないんじゃないかなと。

ききて)この会場の元教員の先生からは、「何か出したやろう」という声が。
近藤)でもあの時1年生だったので専門少なかったんですよ私。教養でもやっぱりレポートだったんですね。
ききて)でも多くがレポートに変わって、いわゆる無事だった学生にとっては楽したなというふうに言ってる人たちもいました。
近藤)だから私、第2外国語がフランス語だったんですけど、その時、フランス語を勉強せずに終わったので、そのせいでフランス語をしゃべれないかなと思って。

ききて)授業も、大学運営も混乱してるわけですね。それが1年生の終わりでしょ。2年生、3年生、4年生、学部時代はその後専門の先生を選んで研究していくということになります。先生はどんなことを具体的に将来やりたいと思って勉強してたんですか。

近藤)でも防災は関心なかったんですよ。地震があっても。防災の研究室は違うなと思って。本当に。でも研究室を選ぶときにやっぱりその後、自分が1年生、2年生、3年生の間で震災復興計画、都市計画をしていかないといけないので、むしろその都市計画ということに関心があって、その研究室に行こうかなと思います。塩崎賢明(よしみつ)先生です。

ききて)塩崎先生は当時いろいろその震災復興の研究や現場もふまれた先生ですよね。その同僚の先生方も神戸大の建築系の先生はもう復興や震災の後どうするというところに奔走されるわけですけれども、そんな先生方からは何か聞かれた言葉とか教えというのはあるんですか。

(写真:学生時代の近藤民代さん 学部卒業アルバムから)

近藤)その時、室崎益輝先生が防災の先生だったんですけど、建築の防災の授業、授業のときかな。「建築を安全に作るということは僕たちは教えている。でもどういうふうに壊れたか壊れるか、それは教えてなかった。そういうことをやっぱり勉強しないといけないんだよ」って言われたことは今でもよく覚えています。そうだなと思いましたね。だって安全、人間の命とか財産を守るっていうのが建築の最低限果たすべき役割で、その建築が人の命を奪ったわけですから、でそれが実際壊れたっていうことは安全じゃなかったっていうことですよね。だからそれを調査してそこから学ぶっていうことは、やっぱり何事にも基礎になるというか、それはしないといけないなっていうのは学生ながら思いました。

<後編につづく>

【震災の日の神戸大は…】 3 工学部1年生の見た震災… 近藤民代さん(都市安全研究センター教授)の証言
<前編>= https://x.gd/xghUw
<後編>= https://x.gd/ogP8K



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