阪神淡路大震災から今年の1月17日で10年。この日を迎えるにあたり、野上学長や、学生団体代表者らが、震災当時や現在、そして未来を考える。【1月17日 神戸大NEWS NET=UNN】?
▽掲載手記一覧(いずれも敬称略)
●未来を考える
野上智行(神戸大学長)
岩崎信彦(文学部教授)
●現在を見る
中田安俊(応援団総部第45代団長)
義井理(学生震災救援隊代表)
●当時を思う
稲村和美(総合ボランティアセンター初代代表)
▽阪神大震災から10年(神戸大学長 野上智行)
1995年1月17日、神戸大学では全学教職員が参加する全国一斉のセンター試験を無事に終えて、受験生の全解答用紙をセンター本部に送り出し、関係者がほっとして眠りについて間もない時間であった。午前5時46分、あの巨大地震が兵庫県南部を襲った。
あの時以来、私達は「もし、…だったら」という問いを何度繰り返しただろうか。
昨年、何度も日本列島を舐めるように通過した台風、中越地方で発生した地震、そしてインドネシア沖の巨大津波。10年前の兵庫県南部に発生した地震も含めて、いずれも現象的には地球上の自然現象として説明されるものとなっている。それらが発生するメカニズムと発生の可能性は自然科学の成果として私たちはようやく認識することができるようになってきている。しかし、そのような現象が生じることを前提として人間は何をどのように為さねばならないかについて十分な英知を獲得してきているのだろうか。人類がこれまで獲得してきた知識を活かす手立てを確立できているのだろうか。社会システムのあり方も含めて私たちは未成熟であることを思い知らされる。
大学は自然を理解し、社会を理解し、人間を理解しようとする人類の英知が結集する場である。自然の営みを理解し、自然の営みに起因する多くの困難を克服する英知が求められるが、その可能性は大学にある。大学の社会的責任は人類の未来への責任であり、大学で学び、研究する者の責任でもある。とりわけ、学生諸君にはこの機会に自分が大学で学ぶことの意味を考えてほしい。
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痛みは未だに残しながらも、10年前の震災から復興することができたのも私たちの力である。そうであるなら、私達の未来は私達の手で構築できるはずである。
▽阪神大震災は何であったのだろうか(文学部教授 岩崎信彦)
1995年1月17日に兵庫県南部地震が発生してから、早10年がたった。町並みはきれいになり、被災の痕跡は見つけにくくなっている。しかし、神戸大学と読売新聞社の共同調査によると、「震災を乗り越えたと思う」と答えた人は55%、「そうは思わない」という人が13%であり、全体としては乗り越えつつあるといえるが、遺族は「乗り越えたと思う」が46%、家族に大けが・病気をした人がいる人は26%、とまだまだ震災との苦闘が続いている。
一方、被災者は、「国内の災害に支援した」が52%(大阪や横浜の非被災者は44%)と当時の支援に対するお返しを行っている。また、多くのボランティア団体はNGO、NPOとして活動を発展させている。新潟地震、台風被害、インド洋大津波などへの支援活動、地域の仕事作り、高齢者、障害者のサポートなどなど。そしてこの1年、市民の立場から「大震災10年市民検証」を進めてきた。その成果は、柳田邦男編『阪神・淡路大震災10年―新しい市民社会のために―』(岩波新書)にまとめられ刊行されたところである。 1995年という年は、バブル経済が崩壊したあと、日本社会が進む道を見失い、精神的混迷が「オーム真理教」事件となって起きた年でもあった。この10年を振り返ると、「震災を乗り越える」ということが、単に震災だけのことにとどまらず、人間らしい生活が送れる社会とはどんな社会なのかという問いかけが行われてきた10年であった、と言えよう。それを「人間再生」と言うこともできるであろうし、「新しい市民社会の形成」と言うこともできるであろう。
これからまた、次の10年、国家行政の行き詰まり、競争的市場社会の「不調」を目の当たりにしながら、それを乗り越えていく「人間再生」「新しい市民社会」を進めていくことが、「阪神・淡路大震災は何であったのだろうか」に答えていく道であろう。
▽応援団のあり方(応援団総部第45代団長 中田安俊)
私が、阪神大震災を被災(被災といっても奈良県民の私は、本棚から落ちてきた本に頭をぶつけた程度だが…)した当時私は小学5年生で、テレビで見る風景は現実に信じられるものでなく、同級生がやたら募金をしたことを自慢げに話していることが偽善たらしくて不快だった記憶が強い。それから何の縁があったのか、神戸大学に入学することになり、応援団に入り、親を説得して、六甲の街に住むことになった。
暮らし始めた当時、六甲の街は、私から見れば震災の傷跡は感じられず、ただの坂の多い街でしかなかった。しかし、生活と人生勉強のため先輩から紹介された居酒屋で働き始めた時、そこで始めて震災の傷跡を見た気がした。店主や客の方が震災について語る目は、私の祖父や祖母が戦争を語る時と同じく、心の傷を感じさせ、それを復興させたことに対する誇りを感じさせる人の目だった。六甲にもまだ、震災の傷跡は十分に残っていると痛感したと同時に、実際に体験してみないとわからない部分があるのも事実だと感じた。そして程なく我々の団体のOBに当たる35代団長の高見さんという方が学生時代に下宿でなくなられたという話を伺い、応援団と震災も当然ながら無縁ではないことを知り、自分の無学を恥じた。
我々応援団は、ただ大きな声を出して、スポーツの応援をするだけの団体ではない。学生が学生として皆で力をあわせ、母校をよくしようという思いの先頭に立とうとしている団体である。この思いを持っている我々は、ただ今ある神戸大学を見ればよいわけでは当然ない。神戸大学が今の状態に至るまでの歴史、そして存在しているこの街の歴史を学ばねばならないだろう。『神戸大学生が神戸大学生として』という言葉の中には震災と向きあうという意味も含まれているのではないだろうか。そのような思いを胸に神戸大学そしてこの町に向けて「フレーフレー神戸!」
▽10年目の取り組み(学生震災救援隊代表 義井理)
救援隊は現在、2つの活動を中心に活動を展開しています。1つは、地域問題に取り組む上で基本となる知識を身につけるための活動。もう1つは、地域型仮設住宅での取り組みから派生した先進的な高齢者ケアのあり方を追及する活動です。
まず1つ目について。年に一度連続講演会を企画し、地域で活動されている方々をお呼びしてお話を聞きます。また、神戸大学ボランティア講座の運営協力も行っています。活動と関係が深い本を扱っての読書会も行っています。次に2つ目について。震災を機に誕生した地域型仮設住宅、その後に生まれた多様な小規模ケアに注目し、高齢者ケアのあり方を追求し、学生のフットワークの軽さを生かした取り組みを行います。高齢者施設への調査、実践者の方々が開いている会議への参加、各地で行われる研修会への参加など行っています。また、基本的な知識と感覚を身に付けるために、読書会や学習会を行ったりしています。そして今後は、自分たちの普段の活動から事例を挙げてのケース検討など、理論と実践をつなぐ努力もしていきます。
さて、救援隊の周りでも様々な活動が展開されています。復興住宅でのお茶会活動、地域の方と共に行うお祭り、学童保育所での活動、地域のいろいろな場所での賑やかし。これらの活動のフィールドも地域の中にあり、幅広く関係を築いています。
各活動は一見ばらばらなようですが、さまざまな背景を持った人たちが互いに助け合える社会を目指すという点では同じです。しかし、自分の携わっている活動の現場だけを見ていては、本来の問題を見失ってしまう恐れがあります。そのような現場主義を防ぐために活動単位同士が連帯関係を築く必要があります。救援隊ではこれらの活動団体を集めてミーティングを行うなど、お互いの状況を確認しあうよう努めています。
▽地域の一員として(総合ボランティアセンター初代代表 稲村和美)
阪神・淡路大震災では全国からたくさんの人が被災地に駆けつけ、「ボランティア元年」と言われた。私も震災で初めてボランティア活動なるものを経験した一人で、避難所になっていた東灘区の小学校に泊り込んで活動した。
避難所の運営は、そこに暮らすことになった人々が生活空間を作り上げていく作業だった。避難住民の代表の方、学校の先生、そしてボランティアで毎晩ミーティングをした。ルールができ、仕組みができ、問題が生じたら改善する。立場を超えて多くの人が能動的に、まさしくボランタリーに課題解決に取り組んでいくということの手応えが私を夢中にさせた。それは、震災前にボランティアに対して抱いていた「誰かを助けてあげる」というイメージとは全く違う、ダイナミックな学びの連続だった。
春休みになると続々と活動希望の連絡が入り、ボランティアのコーディネートが仕事になった。一人でも多くの人に活動機会を提供したいという思いから、自立を妨げないよう避難所の外にも活動を拡大した。介助者を捜していた脳性マヒの男性、情報が伝わらず不安を抱えている高齢者など、さまざまな出会いの中から、震災で見えた問題の多くが、実は震災の前から地域にある問題だということも実感した。
避難所が解消に近付く頃には、なんとかこういった活動の拠点を維持し、この震災で生じた「ボランタリーな活動機会の提供」を仕組みとして残せないかと考えるようになった。そして同じ思いの神大生が集まって企画を練り、1995年5月、「神戸大学総合ボランティアセンター」が設立された。震災限定ではないセンター、学生に活動機会を提供し、学びあうセンターとして、総ボラも10年目を迎える。
「わたし」が「あなた」を助けるのではなく、地域の問題を「私たち」の問題として捉えていく視野、そしてその「私たち」の一員としてボランタリーに活動してみることの手応えを今後ともぜひ引き継いでいって欲しい。
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