3年間学生記者として自分の書いた記事を発信し、やりがいを感じる経験は何度もあった。「記事を書くのが上手だ」と友人に褒められることもある。しかし、年に1度、自分の筆力に対する自信を砕かれる瞬間がある。
1995年に起きた阪神・淡路大震災。23年がたつ今でも、各地で祈りが捧げられている。私は東遊園地の1・17のつどいを1年の頃から取材で訪れ、黙とうに立ち会ってきた。
午前5時46分。遺族、被災者、そして震災を経験していない人たち一人一人が静寂を作り出す。私は記者としてその場にいる。ではニュースネット委員会に入っていなかったら、自らの意志でここにいただろうか。私は静寂を作っているのではなく、飲み込まれているだけだと感じる。
カイロを複数持っていなければ耐えられないような現場の寒さは、自分が書く記事よりもよほど当時の惨状を訴えている。いくら褒められようと、筆力は寒さにすら勝てない。
震災関連の取材を前に、過去に書いた記事を読み返した。取材中に涙を流す遺族がいたこと。竹灯籠を黙って見つめる子どもがいたこと。記事は自分の経験した「震災」を訴えて来る。そして自分の学生生活と震災は切り離せなくなっていると気付く。
学生記者は1月で引退だが、来年もつどいに行くつもりだ。飲み込まれるのではなく、静寂を作り出す一員として。自分の記事が誰かを動かせたかは分からない。ただ自分自身を動かすことはできたのかもしれない。
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