【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)=父・博昭さん、母・典子さんの証言=<前編>

 二宮健太郎さん(当時21歳、千葉県市川高校卒、法学部2年・根岸ゼミ/テニスサークル「ビッグアップル」所属)は、神戸市灘区友田町4丁目1番地の下宿2階に暮らしていた。
 震災当日、いったん出社した父・博昭さんは、昼食時にテレビで伝えられる神戸の光景を見て、急ぎ帰宅。夜のANA臨時便で大阪に向かった。
 翌朝、伊丹の妻・典子さんの実家で義弟と合流。自転車で神戸に入る。
 健太郎さんの住むアパート手前の角を、祈るような気持ちで曲がったが、そこには、無残にもペシャンコになった建物があった。瓦礫をはいでいくと…、そこに見覚えのある左手が見えた。

 取材班は、千葉県船橋市の実家を訪ねて、父・博昭さん(78)、母・典子さん(72)にお話をうかがった。

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61

《写真》テニスサークル「ビッグアップル」の夏合宿で。(1994年8月、山梨県)

電話がつながらない… 当日夜の臨時便で大阪へ向かう

きき手)地震当日、どのようにして地震の発生を知ったのか。いま一度、詳しく教えてください。
父)私たちは、千葉県船橋市の社宅にいました。地震の大きさはあんまり感じなかったものですから、私は朝、普通どおり会社に出ました。神戸は最初は震度6というような、報じ方をされてですね、ああそうかと。ちょっと大きいなと思いながら出社しました。

父)普通どおり、仕事をやっておりましたところ、昼食の時間になりましてテレビを見たらですね、高速道路が倒壊するとか、大変なシーンを見まして、これは大変だと。大丈夫かなと思って、すぐ健太郎に電話を入れたんですね。当時は携帯を持っておりませんでした。健太郎も持っておりませんでした。そしたら、ブーブーと鳴るだけで、つながらないんですね、あれどうしたんかなと。

父)その後、何回か電話をかけても同じような状況でしたから、これは、ひょっとしたらと…。すぐ、会社を早退しました。関西の、神戸の方へ行くべくいろいろ情報を集めたんですが、新幹線がストップし、フライト(航空便)もストップしてですね、どうしようもない。
夜になって、ANAの臨時便が出るという情報に接しまして、それに乗ってなんとか関空のほうへ飛びました。

父)大阪に着いた時には遅い時間でしたから、会社の近くのいつも宿泊していたホテルに泊まりました。
きき手)1月17日は、朝の揺れは感じなかったですか。
父)揺れは分からなかった。
母)ただ私の妹が、埼玉の方にいるんですけれども、彼女の方は揺れたと言ってました。ただ、私たちには、揺れは感じなかったです。

《写真》千葉県船橋市で行われたインタビュー(2022年11月20日午後)

関西で生まれ育ち、中学2年で千葉に転校

きき手)神戸に行かなければと強く感じたのは、どういうことからだったですか。
父)テレビで、家などが倒壊している状態が見えてですね、これはと…。というのは、健太郎の家はモルタルづくりの古い家だったんですね。

きき手)アパートだったんですか。
母)木造の2階建ての文化住宅で、モルタル塗り。1階に2戸、2階に2戸、合計4戸の古い住宅です。
きき手)「○○荘」というような、アパートの名前はなかったんですね。
父)表示は何もなかったですね。

きき手)お父様は、差し支えなければどんな会社にお勤めだったんですか?
父)住友化学です。私は大学時代に法律を専攻しておりまして、その縁があってか、法務部に所属していました。

きき手)住友系の会社の多くは、もともと関西が拠点ですね。
父)ええ、大阪市内の中之島に住友ビルというのがあって、そこに20年近くおりまして、それから東京の方に転勤しました。
きき手)では、東京に住まいを移されたのはいつごろでしたか?
父)転勤で東京に来たのは昭和62年(1987年)です。
きき手)健太郎さんが何歳ぐらいの時ですか?
父)我々が結婚したのは昭和47年(1972年)で、関東に引っ越してきた時は、健太郎は中学2年生でした。
母)最初奈良の方に、家を構えましたので、小学校、中学校はそっち(奈良)の方です。
きき手)じゃあ関西には、なじみがあったんですね。
父)ええもちろんです。で、大学は神戸に行きたいと。
母)関西しか目に入っていなかったんです。夢は、甲子園球場で旗を持って走りまくることでした。(笑)
きき手)野球チームを応援したいから?
母)阪神タイガースを応援したいから。(笑)
父)希望がかなって向こう(神戸)の大学に行って…。巨人じゃなくて阪神なんです。
母)言葉も、関西弁で通していましたね。弟の方は標準語に直すことが多かったけれど。

震災翌日、自転車で伊丹から神戸へ 道は寸断、迂回しながら

父)神戸に向かうときは、お父様とお母様お二人だったんですか?
母)1月17日の夜は主人だけです。
父)私がまず行ってみてということで、状況がまだ分からなかったものですから。2人で一緒に行くことにはまだならなかったですね。
きき手)お母様はどういうお気持ちで、待っていたのですか。
母)電話をかけてもかけてもつながらないし、その日だったか次の日だったか覚えてないんですけれども、テレビかなラジオかな、この人を捜していますというようなところ(安否情報の受け付け)に電話をして、連絡待ちみたいなことをしてたりとかしたんですけど、全然、連絡がない。

母)私の里が兵庫県伊丹市なんですね。次の日(1月18日)に、主人がとりあえず、
そこへ何とかたどりついて。それで、私の弟と一緒に、神戸に自転車で行ってくれたんです。
父)18日朝、阪急電車で移動しました。
きき手)伊丹駅も高架の駅が落ちている状態だったですよね。
父)一つ手前の新伊丹駅の先で(乗客を)降ろしてたんですよ。
きき手)臨時に降りる場所があった?
父)そうそうそれを急きょ作ってたんですね。そこで降りてトコトコ歩いてですね。ご存じですか、伊丹には住友電工の大きな工場がある。昆陽(こや)池がありますね。そこの、近くに、家内の家があるんです。

母)昆陽池っていう大きな、伊丹空港で飛行機で乗って上から見れば、見えますね。行基上人が作ったという大きな池で、あの近くなんです私の実家が。
きき手)ということは、お父様は義理の弟さんと合流されたと。
父)そうです。一緒に自転車に乗って神戸へ向かいました。
きき手)何時ごろ出発しましたか?
父)何時ごろかな、午前9時とか10時あたりでしょうか。

父)午前中にスタートして、途中、道があちこちで寸断されていましてね。もうまっすぐ西の方(神戸の方)へ行けないんですね。ずーっと海側じゃなくて山側の方に迂回しながら。

《写真》インタビューはオンラインでも行われた(2022年11月20日午後)

グランド六甲を過ぎ、友田町にあるアパートへ

[地図]=神戸市灘区友田町4丁目1番地 https://goo.gl/maps/REPZ66Wh2qU92ezJ8

父)阪急六甲駅、JR六甲道駅、それから阪神新在家駅と、(山側から)ほぼ一直線になってますね。
健太郎のアパートは新在家の駅と2国(国道2号)の間の、灘区友田町というところなんですね。
きき手)何時ごろ着いたかは覚えていらっしぃますか?
父)たぶんね(1月18日の)午前11時とかね。それぐらいだったと思いますね。六甲ボウルというボウリング場をご存じですか?
母)今もうないでしょ。
きき手)いま「神戸六甲ボウル」があるグランド六甲のビルですね。
父)たぶんそこだと思います。
父)そこから自転車を走らせて、海側の新在家駅の方向に下りていって、そして、左に曲がったら、すぐ健太郎の住むアパートが見えるんです。

祈る気持ちで角を曲がると… 無残にも潰れたアパートが

父)その角を曲がるときにね、家が潰れてたら、もうダメの可能性がある。そうでなくて、きちんと残ってたら、これは幸いということになる。祈るような思いで角を曲がったんですよ。
曲がったら…アパートは無残にもペシャンコになっておりましてね。それで、ああこれは大変だと。

父)1階部分はもうなくなっていた。下におじいさん、おばあさんがおられて、1人は亡くなられたというのは後で聞きましたが。健太郎は2階にいました。

父)健太郎の部屋は2つあって。1つは勉強部屋いうか、居間。6畳やったかしらね。
母)6畳ぐらいね。
父)それから隣も6畳ぐらいかな、いや隣はちょっと小さかったかな。
きき手)2間?
父)2間あったんです。

父)手前の広い方の部屋の中に潜って行ったら、まだ空白部分があったんです。というのは、机があったもんですから、それでもって、ペシャンコにならなかったんですね。
ですから、例えば机の下に健太郎がいたとしたら、まだ生存の余地があるなと瞬間的に思ったんですが、そこにはいなかったんですね。

父)そして、その奥の方の寝室です。そこは、どうかなと思って見ても、もうグシャッとなっていて、中の状況は全然分からなかったんですね。

父)手前の部屋は机があって、空白部分(空間)が残ってたもんですから。ですから、ひょっとしたら、助かってるかもしれない。外へ出てるかもしれない。あいつのことだから、あちこち、他の人の救助や世話とかで出かけてるかもしれないなと、そういう思いもあったもんですから。アパートの周辺(の町)を私自身、ぐるぐる回ってみたんですね。小学校もありました。
きき手)ちょっと山の方ですか?
父)六甲ボウルまでの間にね。(編集部注:神戸市立烏帽子中学校と思われる)

父)そこには「誰々さん、連絡待つ」とかいろいろ、メモとか連絡書がたくさん貼り付けてありましたから、それをひとつずつ見ながら、ずっと、歩いて回って…。

父)その間、30分なり40分なりあったと思います。

《写真》倒壊した二宮さんのアパート。北側道路の東から撮影。(1995年3月18日撮影 「震災犠牲者聞き語り調査会」提供)

寝室を捜索 瓦礫の中に、左手が見えた

父)そして、そのあと、また現場へ戻ってきて、健太郎の寝室あたりを集中的に、ひとつひとつ、上の方から、瓦礫を取り除いていったんですね。
私は、寝る位置とかよく知っていましたので。

父)どれくらいだったか忘れましたが、瓦礫をはがしていった時にね、仰向けになって寝ていた健太郎の、左手を、一番最初に発見しました。非常に冷たくなっていました。
母)いつも寝る時に、こうして(ひじをあげて、手のひらを上に向けて)寝るんですね。
父)健太郎の手の形は私のとよく似ているから、これはもう健太郎に間違いないと思いました。
きき手)ということは最初に見つけられたのはお父様?
父)そうです。私が最初に見つけたんです。それから近所の人、6人か7人かに手伝ってもらって健太郎を引っぱり出したんです。近所の人には大変お世話になりました。

息子をリヤカーに乗せ、遺体安置所へ

父)そして、健太郎をリヤカーに乗せました。
お手伝してくださった方の中の一人に、リヤカーを出してもらいまして。健太郎に毛布をかぶせて。2国沿いにあった、灘区役所へ運びました。(編集部注:山手幹線沿いにあった)
きき手)当時は、水道筋の方に区役所はありましたね。
父)リヤカーは私一人で引っ張って行きました。
そしたら、区役所は、もう既に遺体で満杯状態で、ここではもう収容できませんと、職員の人に言われて。ああ困った、どうしようと思っていましたら、王子のスポーツセンターがありますよ、と教えていただきました。

父)そこからまた…。
きき手)さらに西ですね。
父)西の方へ西の方へと(進みました)。もう当日は寒くて寒くてね。頭の中は真っ白な状態で、ただ呆然と西の方へリヤカーを引っ張って行ったのを思い出します。

父)スポーツセンターの近くになったら、荷台の広い車が通りかかり、声をかけてくださる人がいて。どこへ行くのかと聞かれたので、これこれで「スポーツセンターへ」と言ったら、乗せてあげるからということになり、健太郎と一緒にセンターまで行きました。
きき手)荷台のある車、軽トラックのような?
父)そうですそうです。それが、当日の状況です。
きき手)これが1月18日の、午後ですね。

遺体が並ぶ、王子スポーツセンター

父)スポーツセンターは、ものすごくたくさんの、たぶん数百人オーダーの遺体が、広い床一面に並んでいまして、そこへ運び込むという状況になりました。

父)阿鼻叫喚というのは、まさにこういう状況なのかと思いました。
当日、夜になってやっと、家内と次男が一緒に、王子スポーツセンターのほうに到着しました。

母・典子さんと次男・潤一郎さんも神戸へ

きき手)奥様には、いつどのように連絡が入ったんですか。
母)私は時間的な感覚というのは忘れているんですけど、健太郎のいた家の、道向かいの方が電話を貸して下さって、主人が家に電話をかけてきてくれたのを覚えているんですね。
きき手)何ておっしゃいました、ご主人はその時。
母)どう言ったんやろね。ダメやった言うたんかな、全然覚えてないね。

母)それでまあ、とにかく、電話も途切れ途切れなんですね。きちっとつながらない状態で。何を言ってるのか。どうも駄目だったって言ってるふうに聞こえて。それで、下の息子を連れて、その日の最終便のフライトで伊丹に入りました。

母)とにかく、伊丹の空港に着いて。それで、私の実家が伊丹ですから、なんとかタクシーも行ってくれて。それで、きょうは神戸に入るのは無理だと思っていたら、弟が神戸から自転車で…。
きき手)また戻っていらしてたんですか?
母)戻っていて、それで行こうって言ってくれて。私と下の息子をのせて、神戸へ走ってくれたんです。

きき手)交通手段は?
母)弟の車です。彼はその日(1月18日)自転車で(神戸から)帰りながら、道がここだめあっちだめと分かりながら帰ってきている。だから、家から自動車で阪神競馬場の方へ抜けて、そこから(西宮市)仁川の山の方ですかね。ずっと住宅地の中を通りながら、こっちだろ、こっちで間違いないだろう、と言いながら神戸にたどりつきました。
その日の夜は、(スポーツセンターの)体育館で過ごしました。

きき手)お父様が神戸に向かわれるとき、臨時便を待つまでのお気持ちというのは、どんなようなものだったのでしょうか。
父)そうですね正直、どうなってるか全く分からない。情報が何も得られない。
ですから、悪いことを想像したり。あいつのことだから、と逆の発想をしたりですね。そこから揺れ動いて、もうちょっと…普通の状況ではなかったですね。

父)あのころっていうのは、携帯電話を持ってる方って、ほんの、一部の人だったんですね。それで、我々が受ける情報というのはテレビぐらいしかないんです。
火事の現場とか阪神高速や家屋が倒壊しているとか。
ヘリコプターからそれを俯瞰している、そういう情報しかなくて。
電話をしても、つながらない。
これは絶対何かあった、ということしか思えなかった。

梁が落ちてきて、胸を横断するように

きき手)お父様は友田町の角を曲がるとき、祈るような気持だったと、いうことでしたね。
父)そうですね。あの時(倒壊したアパートを見て)、地獄へ突き落とされたみたいな、そういう感じにもなりました。
それでもなおまだ、健太郎は2階にいたしね。1階に比べて、まだ少し安全だから。ケガはしていても、なんとか無事でいてくれという、思いはありました。
しかしかなりのところ、ショックを受けて、足が、ガタガタ震えていましたですね。

きき手)1階と2階に東西で2軒2軒ですか。
父)そうですね。
きき手)2階の、西側でしたか?東側でしたか?
父)西側です。西側の2階です。
きき手)へしゃげて?
父)もうグシャやったね。道路に倒れたり後ろに倒れたりではなく、まっすぐズトンと、
きき手)まっすぐ、ずとんと落ちる感じ?
母)一番揺れがきつい場所だった。
きき手)震度7というのが一番強い揺れの地点ですね。
父)友田町の辺りは、山側に比べて、圧倒的に震度が強かったと思います。

きき手)2階ということは、天井や屋根が落ちてきているわけですか?
父)そうです。天井の梁(はり)が…。申し忘れましたが、瓦礫を剥いでいくでしょ、そしたらね、このように梁が、こんなに胸を横断するような形で梁が落ちてきてました。
ですから、もう、即死ですね。多分。

《写真》倒壊したアパートから取り出された、ラケットとバイクのヘルメットは、実家で大切に保管されている (2022年11月20日、千葉県船橋市で)

胸部の圧死 瞬時のできごとだった

父)検視の結果もそうですが、胸部の圧死ですよね。それが、死因です。
私は、健太郎が……<声を詰まらせる>…涙をね…流してたら、どうしようかと。なぜならば、前日に(救援に)来れなかった。来てやれなかった。
それがゆえに、健太郎が家族のことを思いながら涙を流しながら息を引き取っていたとしたら、申し訳ないなと、心の中で強く思ってたんです。
彼の目を見たら、涙が出てなかった。それほど、瞬時の圧死だったのですね。検視の結果も、そういうことでしたね。

父)2階だったら何10%ぐらい助かってもいいのになと…。2階だと助かった例も結構ありますし。そういうケースだったらよかったんですが、不幸にも、梁が胸部を、もう本当に横断するような形でドンと落ちてました。ですから、これはもう、どうしようもない状況だったなと思います。

きき手)今、お父様のお話にあった思いは、つまり、前日、長い間苦しまれて救援を待っていたのだったら…と、お父様は思われたんですね。
父)そうですそうです。
きき手)早く助けてほしいという訴えを、もししていたとしたら…という思いだったと。
父)そうです。

きき手)手は冷たかったんですね。
父)冷たい。そうでなくてもね。あの日の冷たさというか。
母)あのときは寒かったね。
父)非常に寒かったです。寒いのを想定して、厚着して行ったんですが、それでも凍りつくような、寒さでした。

【慰霊碑の向こうに】15 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)=父・博昭さん、母・典子さんの証言=<後編>に続く。

《写真》千葉県船橋市で行われたインタビュー(2022年11月20日午後)

<2022年11月20日取材/2023年1月13日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています

https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1

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