「神大紛争」とは何だったのか? フィルムに残った証言?闘った学生、ノンセクトの学生

 10月27日(日)の「50年目の卒業式」で上映されるドキュメンタリーフィルム『Rollig』(1979年・神戸大映画研究部制作、カラー・一部白黒、8ミリフィルム、49分)。今回発掘されたこの映像には、紛争で向き合った大学側、学生サイドの証言が収められていた。<小野花菜子、玉井晃平>


(写真:六甲台正門付近でデモを行う学生とそれを取り巻く学生、教職員。1969年。 画像提供=神戸大学文書資料室。)

 映画には、当時学生だった人たちの証言も収められている。

 1969年当時文学部学生で、あるセクトに入っていたKさん(撮影当時は関西の私大の大学院在学中)が証言している。撮影は拒否したため、字幕が、画面に映し出される。
「具体的には住吉寮の問題があったわけ。要するに、“教育の機会均等”ということが問題だったわけでしょ。文部省側のしめつけは、日本帝国主義の再編成への過程っていう、そういうふうな認識があったからね」。
 「日本帝国主義っていうのは、アメリカ帝国主義っていうのと手を携えて…というふうな認識があったからね。それはとりもなおさず日本帝国主義に対する戦いとして、アメリカ帝国主義、すなわち、安保破棄っていう方向で戦うっていうのが、その当時の学生の一般的認識やったんちがう?」。
 「僕は『敗北した』とか、『私の人生が紛争でむちゃくちゃになった』とか、『思想そのものが変革されてしまった…』とか、そういうことはまずなかったね」。
 「僕が10年後の学生であったとしたら、というなら、僕もやっぱり学生運動にはアレルギーみたいなものを示したやろうね。でも僕は10年前の学生であり、その当時は一部学生だけの独走体制ではなくって、みんなが立ち上がるという動きにあったんよ」。


(写真:闘争に参加した学生のインタビューは、字幕処理で画面に映し出される 1979年に製作された映画『Rolling』から)

 画面は望遠レンズで大阪湾を捉える。ズームバックすると、鶴甲団地が広がる。

 「ええ、ノンセクトはノンセクトですけれども、授業がずっとなかったもんでね、私が3年の頃の終わりからですから(昭和)44年の最初から11月までずっと講義がなかったんです」と語るのは、闘争には加わらなかったという、当時文学部の4回生だった楫野政子さん(元高校教員、撮影当時主婦)。自宅のある鶴甲団地のベンチに座って、カメラの前で証言する。
 「文学部の学生大会で、44年の初め頃だったと思うんですけど。学生大会でストに入るということを決議して、それからずっと授業がなくて。その状態がずっと続いてたわけです」。
 「講義があってもそんなに真面目に受けるとか、そういうあれでもないんですが、それでも講義がないってことは非常に大きなことでね、あって出ないんじゃなくて、もう全然(講義が)ないわけですからね」。
 「でも最初のうちは、そんなにみんな講義がないっていうことに対してそれほど大きな意味も感じてなかったんですけど、やっぱり夏休みにかかる頃になってから次第に私たちは、卒論とか控えてますのでね、だんだん焦りを感じてきて。4回生ですから。で、夏休み頃からやっぱり授業をやってほしいという学生の動きがありました」という。
 「我々どっちつかずで、学校に来ないでいいわなんてそれほど楽天的にも考えられないし。やっぱり何か自分たちもしないといけないんじゃないか、いけないんじゃないか、っていうふうなことで。学校には行ってるけれども、具体的に何をしてるっていうではなかった」と振り返る。
 「(学校には)行ってました。ずーっと。ほとんど行ってましたけどね。授業がないから、全然学問的なことがなかったかって言われると、そんなことはないっていうことですけども」。
 同じ学科やクラスの友人で、とうとう学校に帰った来なかった学生はいたかという質問に、「ありましたね。それはでもほんの数人。積極的に闘争に参加して、それこそ裁判とかそういうことになった」とも答える。


(写真:ノンセクトの文学部4年生だったという楫野政子さん。 1979年に製作された映画『Rolling』から)

 映画には、随所に、紛争から10年がたった平和な若者が映し出される。
 そぞろ歩く若いカップルに、インベーダーゲームがオーバーラップする。
 学園祭(教養部の水無月祭)に興じる学生たちの姿には、前年デビューしたばかりの「サザンオールスターズ」の歌が流れる。
 一方で、大教室では、中山千夏と矢崎泰久のトークセッションが行われている。

 ハイツキャンパス(文・理・農学部)のロータリーで野球に興じる学生たち。
 カメラは、理学部の研究室内に入っていく。

 ナレーションで、「理学部修士課程だったUさんは、火炎瓶を投げたりかなり過激な活動をしていたということです。その後名古屋大学の博士課程に進み、現在研究活動のかたわら、予備校で教鞭をとったりもしています。Uさんも仕事の都合上、撮影や録音は差し控えて欲しいとのことでした。」と紹介があり、字幕のみの画面になる。

 「たしかに、ある人にとって挫折だったかもしれない。しかし、紛争の傷跡というものは、それ以上にずっと深いものがある。僕なんかはいまだに、学会で闘い続けている。大学の内部でも、紛争の時、どんな立場に立ったかということで、いまだに教授と助教授の間の関係がこじれたままのこともある」。
 「でも紛争でできた大きな流れというか、そんな流れは、深いところで今も流れ続けている。たとえば公害問題を追求する運動だってそうでしょ。だから、そんなふうにして、紛争が全く無に終わってしまったとは、思わんね」。
 「だから、今の学生についても、何か不満みたいなものがあると思う。それがうっ積していくと、いつかまたワァーッと爆発することがあるかもしれんね。でも大学に入ったら、パアーッと解放されたみたいな気分になってしもて遊んでしまう。不満も別にない…。何か受験生時代に肝を抜かれてしもたんちゃうかな」。

 画面は、教養部や学生会館でサークル活動をする学生に近づき、マイクが向けられる。
 学生生活について、100点満点で何点?という問いに、2年生男子はこう答える。「高校の時は勉強していたけど、今は全然勉強してない。人間的厚みから見たらええ点がつくかな」。
 楽器の練習をする3年生男子は、「60点ぐらいと思いますけど。ほとんどクラブで授業はさぼってばっかり。大学に入ったのは、就職に役に立つから」という。


(写真:大学紛争から10年後の1979年のキャンパスでインタビューに答える学生たち。 映画『Rolling』から)

<続く>

▽セクト:英語で「分派」の意。日本の戦後政治では、急進的な革命や暴力革命を掲げて、実力行使に重点を置いた運動を展開した新左翼の勢力の党派のこと。暴力的な集団は「過激派」などといわれた。特定の党派に属さない人は「ノンセクト」と呼ばれた。

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