【慰霊碑の向こうに】? 故・中村公治さん(当時経営学部3年) =母・房江さんと妹・和美さんの証言=

 中村公治さん(当時21歳、名古屋市立向陽高卒、本多ゼミ/映画研究部)は、神戸市灘区六甲町2丁目4の西尾荘1階に下宿していた。
 1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、実家の名古屋でも震度3を観測。母・房江さんが午前8時前に公治さんの下宿に電話をかけた時は呼び出し音がなったが、10時ごろにかけた時はその音は鳴らなかった。
 父・勇さん(故人)が神戸に駆けつけたが、西尾荘のあたりは焼け野原。焼け跡の遺骨を『中村公治』と証明してもらうのが大変だったと、勇さんは話していたという。

 愛知県豊明市の中村さんの実家で、母・房江さん(72)と、妹・和美さん(42)に伺いました。


(写真:震災の2年前の成人式の日の写真。友人が撮影して提供してくれた写真だという。 1993年1月15日撮影 中村房江さん提供)

午前10時ぐらいに電話をかけた時には、もう鳴らなかった

きき手:名古屋でも揺れましたか?
母:わりと大きいなあという感じでしたね。
妹:ちょうど下に沈む、やっぱり直下型地震というのを感じるぐらいの。がくんと下がりました。一度大きな、ねえ。
母:それで…、仕事行く前にテレビを見たときには、火事が伝えられてたけどまだ大丈夫かなと思ったので、会社に行って電話をかけたの、私。で、その時は呼び出していたのよ、まだ。火事になる前だったから。
きき手:西尾荘の公治さんの部屋の電話ですね。
母:1回目の時は呼んでたの(呼び出し音はしていた)。で、あー大丈夫だろなと思ったの、とりあえず電話がつながったから。
きき手:何時ごろでした?
母:午前8時…、仕事が8時始まりだから、そのちょっと前に掛けて。それで、もう一回、10時ぐらいかな?かけた時には、もう電話が鳴らなかった。
きき手:何の音もしない?
母:そうそう。で、あれーっと思ったの。

母:まだ、ねえ、そんななるとは思わなかったから。まだ会社にいたのよ。
きき手:会社はどういったお仕事なさっていたんですか。
母:普通の町工場みたいなところ。

母:主人は魚市場(の勤務)だから昼前に家に帰ったら、同じ映画研究部の井口(克己)さんから電話が掛かってきたって私の会社に電話がきて。
きき手:井口さんはお友達でしたよね。
母:はい、同じ名古屋市立向陽高卒で、学部も経営学部でした。


(写真:母・房江さん(左)と、妹・和美さん(右) 2019年11月4日撮影 愛知県豊明市で)

神戸に行って…遺骨を持って帰ってきました

きき手:高校が一緒だった井口君が、電話をくれた?
母:そうです。家に電話くれて。
きき手:その時にもう中村さんはもう厳しい状況だっていうのを聞いたんですね。
母:駄目でしたね。もう火事だったから。
それで、その夜だったか次の夜だったかわからないんですが、主人と上の兄さんと、あれは甥になるんですが…甥といってもおんなしぐらいの年齢の人ですけど。それでとりあえず神戸に行きましたけど。で、とりあえず着いて、もう焼け野原でしたわね、その時は。だから、あの、遺体のね、中村公治っていう証明をね、してもらうのに大変だったみたいですよ。


(写真:焼け落ちた西尾荘。震災から2か月たっても焼け落ちた瓦礫が広がっていた。 1995年3月18日撮影 神戸大メディア研/ニュースネット)

井口克己さん(当時経営学部3年)は、午前8時ごろに、まだ火の手が迫る前の西尾荘に救援に行ったと後に証言している。
 「『出れるのかなあ』、『あとちょっとだよ』と、声を掛け合った。埋まってるだけで出てくる、と思っていた。中村君は『痛い』と言っていた。はやく取ってあげなければ、と思った。
 20、30分くらいして、気づいたときには火が来たんですね。西尾荘の屋根が落ちそうなくらいに燃え移っていた。風が強かった。
 西尾荘の崩れたものを取り除こうとしていた人は5、6人いたけど、気づいたら最後の1人になっていた。どうにもならなくなり、自分も立ち去った。立ち去ったと同時に崩れ落ちる音がした。
 『ごめんなさい』という気持ち。最後、話をしていたかどうかまではわかりません。その場に立ち尽くしていました」。(2009年9月24日取材 「僕たちの阪神大震災ノート 震災写真[調べ学習]プロジェクト」公式サイト http://1995kobe.d.dooo.jp/photo17.html から抜粋)

母:で、それをとりあえずちょこっとこんなぐらいですよね(手に盛るようなしぐさ)、夫は遺骨を持って帰ってきましたね。あれは次の日だったかな。17日じゃなくて18日だったかもしれない。それで帰ってきて、しばらくしたら警察からもう少しあるって言われてね、遺骨がね。で、その時私も娘も行ったんだよ、一緒に。神戸に、大学に行ったんです。
きき手:行かれたのは車で行かれた?
母:車で行きました。

母:そうですね。だからあの時の火事は、朝の8時頃だったですよね、あの商店街から(火が)来たのが。瞬く間に燃えたんでしょう。細い道の向こう側は焼けなかったんです。もうあれ見た時…。1本の道が分かれ目になるとは…。

母:井口君は葬儀の前の日ぐらいにみえたんだったかなあ。もう本当にお世話になりっぱなしでねえ。
きき手:井口さんご自身の手記の中で、中村君のことが気になって、西尾荘の方に行くっていう、いきさつをちょっと語ってらっしゃいますよね。
母:そうです、それで友達何人かと助け出す、まだ火事になる前に、助け出したんだけど、助け出せなくて、火が回ってきて。だからまだその時分(生き埋めになっていた時は)、声出してたから。
きき手:井口さんとやりとりをしていたんですね。


(写真:西尾荘の焼け跡には追悼上映会の案内チラシが置かれていた。風で飛ばないように瓦礫で重石がしてあった。その横には花束が。 1995年3月18日撮影 神戸大メディア研/ニュースネット)

遺体じゃなくて遺骨…亡くなったことを受け止められない

きき手:あの、同じ西尾荘に住んでいた坂本竜一さんのお父さんが、掘って探さなきゃいけなかったとおっしゃっていました。
母:ええ、そうです。
きき手:掘っていたら、骨の状態で出てきたということで、坂本さんのお父さんは大変辛そうに語っていらっしゃいました。
母:うちの人(夫・勇さん)、兄さんと甥の3人で掘ったみたいですよ。とりあえず掘らないと出てこないっていうんで。やっぱり坂本さんと同じです。掘って、うちのが出てきたっていうんだから。とりあえずなんか、網に包んで持ってきたんだけど。

母:何とも言えない。顔はないからね、ほんとに。遺体じゃなくて、遺骨っていうの。あれはもう顔がないっていうのは。で、後からもらったのと合わせても、まあこんなくらいのが2つですよね。顔がないっていうのは、なんていうんだろうね、亡くなったというのを受け止められないっていうの。何年も前の話ですけど、ほんとに。

きき手:西尾荘は2棟あったそうですね。
母:あのうちは道路側の、とりあえず入り口から1番奥だったのよ。で、一番手前入り口のところが坂本さんだったよね、確か。で、私たちが(下宿探しに)行ったときはまだそこが空いてて、どっちにする?って言ったら一番奥にするって。


(写真:追悼上映会であいさつする母・房江さん<左>と父・勇さん。 1995年3月26日撮影 神戸大六甲台講堂で。 神戸大メディア研/ニュースネット)

中村君の生きた証しのフィルムをと、追悼上映会が開かれた

地震から2ヶ月後の、1995年3月26日。神戸大の六甲台講堂で映画研究部の追悼上映会が開かれた。部長だった中村さんが生前監督を務め、完成を楽しみにしていた作品と一緒に、過去に中村さんが製作していた3作品も上映された。

母:井口君は、「中村の生きた証しのフィルムを残したい」って言ってもらって。私はその言葉がものすごい心に残っているんです。そこまで想ってもらえてね。ありがたいです。
きき手:井口さんの尽力もあって追悼上映会がありました。それを見られた時はどんな思いでしたか?。
母:初めて見たからねえ。一応劇やってるからね、多少は演技してたりねしてたから。…見てるんだけど、あの、あんまり私は頭の中に残ってない。ね。
きき手:時計がテーマでしたね。古い時計、大きな時計がね。
母:そうそう。そうです。私は。そんな映研に入るなんて、私たちにしたら思いもよらない部活動に入ってね。それも不思議でしたからね。あら映画なんて好きだったかなーって。
きき手:映画研究部でも公治さんはリーダー的な存在だったんですよね?
母:はい、一応部長やったから。そうだったんじゃないかな。
母:(作品を)四角いビデオテープでいただいたんだけど、もう今は見れないわねえ。


(写真:追悼上映会で記者に囲まれる父・勇さん<左>と母・房江さん、妹・和美さん。 1995年3月26日撮影 神戸大六甲台講堂で。 神戸大メディア研/ニュースネット)

火事がなかったらあの子は助かってる

きき手:西尾荘のことは、坂本竜一君のお父さんにもインタビューをさせていただきました。
母:(西尾荘で亡くなったのは)坂本さんと、鈴木(伸弘)さんとうちだったからね。木造の古い建物だったから。
きき手:あの西尾荘に住んだのは一年生の時からだったんですか。
母:そうですよ。で、一時かわりたいって言った時もありましたね。かわれば良かったね、というのはありますけどね。
きき手:公治さん自身が見つけてきた下宿アパートだったんですか。
母:受かってすぐ行きました。合格してすぐ行って、もう、あそこの下宿を決めて帰ってきましたね。

きき手:最初、神戸に着いて、その神戸の街というか実際に壊れている町を見て、その時どう思いましたか。
母:あの子の住んでいるところは焼け野原でしたからね。何にもなかったし、本当にちょっと離れたところにビルみたいな3階建てのがあっただけで、あとはもうみんな焼け野原でした。
きき手:なんかもう、ビルやマンションの一部も焼けてましたよね。
母:焼けてました、はい。それで、とりあえず大学に行ったのよ、そこから。だから大学は山(の中腹)にあるから、なんにも(被害は)なかったですね。ええ、同じ神戸なのにっていうか、ああ何にもなかったんですねって。それで、ゼミの先生に会えました。その時にあの子の答案用紙など何枚か残ってるからって、頂きましたね。
きき手:経営学部の本多ゼミだった
母:そうです。本多先生も来てくださいました。ゼミの学生さんも一緒に。

きき手:神戸の街、和美さんも行かれたんでしたよね。
妹:町全体がなんか静まり返ってる感じがとてもして。
きき手:最初行かれた時、神戸の街についたのは何時頃だったんですか。
母:あれは7時間後だったよね。
妹:ちょっと覚えていないなあ。
母:車で行ったよね。あれが7時間後なのよ。
妹:そうそう、それは1回目。私は2回目に乗ってるよね。
母:1回目はお父さんだけだよね。2回目に私も初めて行って。で、焼け野原でした。西尾荘の道を挟んで向こう側は焼け残ってたのに…。
妹:そうだったね。
母:道を挟んで、こっちだけがダーッと焼けちゃって。向こうは良くてこっちは駄目だっていう。何とも言えない気持ちですね。火事がなかったらあの子は助かってる。

ゼミやサークルの仲間が大勢弔問に 焼香台を3つ余分に出した

きき手:じゃあ、お葬式は何日後でしたか?地震は火曜日でした。
母:日曜日にやりたいっていう主人の希望だったから日曜日だった。葬儀屋さんに頼んだら、自宅ではできないって言われてね。
きき手:できないというのは?
母:あの、棺が入らないっていう。ここでは無理と。
きき手:お家でやりたいって言ったけど、ここは棺ともう何人か入ったらいっぱいになるからですか?
母:それでここではできません、って言われて。あとは、葬儀屋さん任せでした。
きき手:お寺さんは何というお寺さんだったんですか。
母:曹源寺です。そこは駐車場が広かった。それに、広くて大勢見えたときも大丈夫ですって。みんなお任せで、一応済みました。葬儀までは本当に全然何の記憶もないじゃないけど、ただ流れで過ぎました。
きき手:ご葬儀の時には、お友達などもたくさんお見えになったそうですね。
母:焼香するのが足らないから3つ余分に出してくれないか、っていうのは聞こえてたから。
きき手:学生の仲間がたくさん来てくれたという。
母:クラスの仲間、ゼミとサークルの仲間、小学校、中学、高校時代の友達ですね。

リーダーシップは小さな頃から 小中高と生徒会長だった

きき手:それまでは特に映画を撮ったりはされなかったんですか、高校時代とかは。
母:そんなの全然でした。
きき手:高校の時は何をやってたんですか。
母:ハンドボールかな。で、後は野球やってました、中学校は。はい。
きき手:スポーツ、ですね。
母:あの、好きなんだけど、上手じゃない。野球だって、大体補欠の1番目くらい。とりあえず1番目だって私は言われたから。
きき手:お兄さんはどういう方だったんですか。
妹:うーん。あの、いつもリーダーシップは小さな頃からあって、で、生徒会長とかなってたんで。中学だったよね?
母:小学校、中学、高校もだったよ。高校は言わなかったけど紙見てね。
妹:聞いてなかった。人の前に立つ、ねえ。
母:リーダー的な面はあったと思いますよ。
妹:うちではね、全然見せなかったけど、外ではね、活躍してた。だから、私からしたら優秀な…。
母:お兄ちゃん。小学校6年生になった時、その新入生迎えるときの生徒会の言葉ね。お母さんこうやって文章書いてるけどどう?って言ったり。

就職したら、名古屋には帰って来ないって言ってた

きき手:1995年1月16日の月曜日は振り替え休日で、3連休でした。
母:その休みの時は来なかったけど、正月には帰って来てて。正月はずっと家にいたのよ。この子(妹・和美さん)は受験でしたので、熱田神宮に行きました。もうリクルートのスーツがいるって言って。
きき手:就職活動に。
母:そうそう。そうです。で、買いはしなかったんだけど、じゃあ見ようかって言って、熱田の駅にちょっと百貨店ではないけどそれらしき店が駅のとこにありますから。そこで一応見て、じゃあ靴だけ買おうか、叔母さんのくれたお金があるけんそれで買ったらいいわって。で、靴だけ買って帰ってきて、次の日ぐらいにもう帰ったかな。バイトがあるから。
きき手:それは何日ですか。
母:だから1月3日ぐらいじゃなかったかな。送っていく時、私が送っていったの。雨降ってたけど。
きき手:正月休み終えて神戸に帰る時ですね。
母:で、向こうの方(神戸)はもう雨は上がってるだろうし、傘は私が持って帰った。それが最後だった。

きき手:アルバイトは何をされてたんでしょう。
母:焼き肉屋は長く行ってたみたいですよ。あとは、お正月前に百貨店のお歳暮のアルバイトとか、なんかいっぱいやってましたね。

きき手:就職の話なんかもしてました?
母:正月に少し持ってきてたのね、2、3冊本を。で、部屋に帰ったらもっと分厚いのがいっぱいあるとかなんだか言ってました。
きき手:会社案内が載っている就職情報誌ですね。経営学部だから、こういう方面に行きたいとかおっしゃっていましたか?
母:あ、それはありましたね。とりあえず帰っては来ないって言ってた、名古屋にはね。
きき手:名古屋では勤めないと。
母:金融関係でしたね。ゼミの先生はそう言っておられました。あの子は数字が強いし、金融ですねって。あの時分は良かったからね、今と違って。
きき手:じゃあ先生は金融に行くんじゃないかと。
母:思ってたかもしれないけど。

遺影は大学の入学の時の写真です 若くて、あの子の顔じゃないみたい

きき手:こちらの写真はどういった写真ですか。
母:これは成人式の時のですよ。
きき手:成人式。
母:友達の家で、撮って頂いたのがとりあえず残ってて。まあほとんど無いからね。家にあったのもほとんど持って行ったからね、向こうへ。残ってるのはほんとに小学校入る前くらいの写真ぐらいしかないです。
きき手:これがその遺影に、葬儀の時も遺影になったのですか。
母:あ、遺影は大学の入学の時の写真です。だからあの子の顔じゃないみたいですね。
きき手:ちょっと若い?
母:若いし、あの子の顔じゃないわ。
きき手:じゃあこの成人式の写真は後から手に入れられた?
母:亡くなってから友達が、持ってきてくださって。

きき手:大学の合同慰霊祭には参列されましたか。
母:はい、行きましたね。
きき手:取材も受けられましたね。
母:『ニュースステーション』ね。私の職場で一緒に働いてた女の子で、大阪や四国に嫁いだ子から電話来たわね。やっぱり全国放送でしたから。
きき手:多くの方が、公治さんのことを知った。
母:そうですね、テレビで知ったんでしょうね。今一人暮らしで老人会みたいなのに一応入って、ちょっとでも友達作らないとね、生きていけないから。そしたらやっぱりそのニュースで知って見えるんだわね、何人かから言われました。

自分の大学の先輩が短い命で終わってしまったこと、覚えてて欲しい

きき手:今年(2019年)の献花式に現役の学生はひとりもいませんでした。そういった中で、やはり今の学生は阪神・淡路大震災を遠い出来事のように感じているように思えます。そういった若い世代に対して、なにか伝えたいことがあれば教えていただけますか。
母:やっぱり私たちとしてはそういうことがあったということは、やっぱり心に留めてて欲しいし、事実は知ってて欲しいですね。やっぱり慰霊碑がある限り、覚えてて欲しいと思います。
妹:そうですね、今の学生たちにとっては生まれる前の出来事だから。あの、もちろん自分には関係ないことと思いますよね。だけど、自分の入った大学の先輩が、短い命で終わってしまったということを、できたら後の世代にも伝えていって欲しいなと思います。
(2019年11月4日インタビュー きき手:森岡聖陽)


(写真:映画研究部の作品に残された中村公治さん。8ミリフイルムから。中村房江さん提供)


<2019年12月28日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】? 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】? 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】? 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】? 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】? 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】? 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】? 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】? 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】? 故・白木健介さん(当時経済学部?課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】? 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b

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