震災で亡くなった学生の遺族 慰霊碑に今年も集う

 阪神・淡路大震災から25年。1月17日昼の六甲台第1キャンパスの神戸大慰霊碑には、1年ぶりに顔をあわせた遺族らの姿があった。ここ数年神戸を訪ねることができなかった遺族も、今年は、25年ということで参列する人も見られた。今年は現役学生の姿がみられたことが大きな心の支えになった、という声もあった。<献花式取材班>


(写真:今年は12組の遺族と関係者が集まって慰霊碑前で記念の写真を撮った。例年の倍ほどの顔ぶれがそろった。 2020年1月17日13時11分、神戸市灘区六甲台町で)

 「お元気でした?」。「いやぁ、おひさしぶりね」。60歳代後半から80歳代の年配の女性らが笑顔で声を掛け合う。
 阪神大震災で息子や娘を失った親御さんの悲しみは深く、伏流水のように心の底に流れている。しかし、年に一度、会っておしゃべりできる献花式の場は大切な時間だ。
 なぜか、父親らは、少し離れた木の下にたたずんで、母親たちのときに明るく弾む会話を、遠くから眺めていることが多い。

 今年は、25年ということで思い切って神戸に来たという遺族もいる一方で、かつて毎年参列していた遺族で、高齢を理由に断念した家族もいた。夫を、妻を震災後に亡くして、一人で参列する遺族も。

 5年ぶりに慰霊碑に来ることができた故・工藤純さん(当時・法修士1)の母、延子さん(72)。足が不自由になり、車いすで四国中央市からかけつけた。
 慰霊碑周りはでこぼこの土なので、少し離れた舗装されたところで献花式を見守った。公式の行事が終わると、母親たちが工藤さんの車いすを囲んだ。

 去年から体調を崩し、自宅で療養を続ける故・白木健介さんの父・利周さん(77)。この日は、早朝の東遊園地で追悼行事に参加してから、テレビクルーに付き添われて六甲台に登ってきて、少し遅れて献花に加わった。持ってきた花束をプレートの前に置いた。
 
 いつも、自然発生的に遺族が一緒に集合写真を撮るが、なかなかそろって撮影するタイミングが難しい。
 ところが今年は、声を掛け合って、多くの遺族が慰霊碑前に集まった。親しい遺族同士、あるいは何年かぶりに参列した遺族も…。今年は12組15人の遺族と関係者1人が慰霊碑前に並び、多くの報道カメラマンがシャッターを切った。

亡くなった学生のご遺族のコメント

●戸梶栄子さん(70歳)=大阪府和泉市
 当時経営学部2年 故・戸梶道夫さん<大阪府立三国ヶ丘高卒/バドミントン部>の母。
▽25年ということもあってか、学生のみなさんがたくさんこられた。
▽遺族のみなさんに1年に1回会えるのが楽しみ。今まで子どものことばかり思っていたが、みんな歳をとったなぁと感じる。来年は自家用車で来るのはやめて電車で来ようと話している方もいた。(連れ合いが)亡くなった方も多い。残念ながら今回会えなかった方もいた。
▽だんだん会えない人が増える中で、神戸に行けるあいだは夫と二人で行こうと話している。

●白木利周さん(77歳)=神戸市北区
 当時経済学部?課程3年 故・白木健介さん<兵庫県立神戸高卒/硬式テニス部>の父。
▽みんなは節目というけど、息子のことを(いつも)思っています。1.17は瞬間的に当時のことを思い出します。(体調を崩していたが)1月17日までには復活するぞと思って来た。
▽ここ(慰霊碑)に来るとほかのご遺族の方に会える。みんな仲間で一人じゃないんだなって思える。

●藤原宏美さん(79歳)=津市
 当時経営学部4年 故・藤原信宏さん<三重県立津高校卒>の父。
▽何年とか、関係ない。25年は仏教では27回忌、それぞれの数え方があるけど、1年が経つということは老いること。でも子供の年齢は止まっている。(息子が)おってくれたら相談事とかできるけど…。

●藤原美佐子さん 藤原信宏さんの母。=津市
▽25年は短かったような長かったような。私は元気なうちは来るからね。多くの方に来てもらえるとうれしいな。

●工藤延子さん(72歳)=四国中央市
 当時法学部大学院修士1年 故・工藤純さん<愛媛県立三島高卒/応援団総部吹奏楽部>の母。
▽地震の日の一日前に戻ることができたらなと思ってしまいます。1月15日に吹奏楽部の飲み会があって、16日の朝まで友達と一緒に飲んでいた。友達が帰るとき、「工藤くんが一生懸命ワープロを触っていた」って。ワープロを「人と防災未来センター」に寄贈しようとしたとき(中から)細かい砂が出てきて。神戸の匂いがした。あの子はワープロを「僕の一番のたからもの」と言っていた。
▽毎日息子のことを思っている。時間が癒してくれるとかっていうことはない。何年目だからって変わるわけじゃない。

●工藤優さん 工藤純さんの父。=四国中央市
(延子さんが席を外しているときに)「息子が生きとると思っているんやろうなあ」。

●都築和子さん(55歳)=神戸市兵庫区
 当時法学部4年 故・櫻井英二さん<愛媛県立八幡浜高卒/ユースサイクリング>の姉。主婦。
▽1月17日は毎年来ている。JR六甲道駅から歩いてくる道中、心の中で弟に話しかけるようにしているが、やっぱり悲しい。弟は六甲道の近くに住んでいたが、地震の数日前にも私の家に来ており、もしあの日、泊まっていたらとか、時期があと3ヶ月ずれていたら就職して下宿を出ているのに、など、考えても仕方がないがやっぱり悔しい。私の中ではまだ時間が止まったまま。

●上野政志さん(72歳)=兵庫県佐用町
 当時発達科学部2年 故・上野志乃さん<兵庫県立龍野高卒/マンドリン部>の父。
▽こんなに多くの人が思いを馳せてくれているのが嬉しかった。交流がなかった遺族の方ともお会いできた、いい機会だった。

●林敬子さん(71歳)=山口県下関市
 当時経済学部2年 故・林宏典さん<山口県立下関西高卒>の母。
▽毎年来ているわけではなく、これまでに2、3回しか来ていない。今年は、25年という節目だったことと、私自身が年だから、東遊園地での催しをテレビで見て絶対に行こうと決めた。その後でここへ来た。
▽25年が経ってもやはり忘れられない。息子は灘区に住んでいて、即死だった。最近は災害が多くなってきているので、ぜひ(教訓を)受け継いでいってほしい。
(宏典さんの妹・由美子さん<43歳>とともに参列)

●阪口真咲さん(46歳)=滋賀県、会社員
 当時自然科学研究科博士前期課程1年 故・今英人さん<石川県立泉丘高卒/軟式庭球同好会、スキー同好会、湧源クラブ>の妹。滋賀県。
▽ここ10年は毎年来ている。それ以前は来たくなかった。思い出したくなかったので。
▽自分に子供ができて、母親になったことで、変化があった。母とここへ来られるようになった。
▽学長あいさつでもあったように、大学として災害への活動や研究に力を入れていってほしい。

●竸恵美子さん(72歳)=名古屋市
 当時自然科学研究科博士前期課程1年 故・竸基弘さん<名古屋市立向陽高卒/ユースサイクリング>の母。
▽献花式の参加者が年々減っていってましたけど、25年という節目やあなたたち(メディア研)の活動もあって、参列された方がいっぱいいてくださって嬉しかったです。
▽それと「しあわせ運べるように」を神戸に来た時に聞いていたのですけど、今回学生さんたち(混声合唱団エルデ)が改めて歌ってくれたのに心動かされて、癒されました。
▽今年、(献花式に現役学生が参加する)礎を作ってくれたと思うので、それをしっかりしたものにして、(次の世代にも)引き継いでいってくれるようにと願っています。きっと心ある学生がお見えになるので語り継いでいく。そのことを大事にしてほしいです。

亡くなった学生と生前関係があった方たちのコメント

●末吉種子さん(94歳)
 故・森渉さん(法学部4年)が当時住んでいた下宿先の大家さん。
▽こうやって今も森さんのご家族と関わらせてもらってありがたい。年齢的にここに来るのは最後かなあと。

●長瀬新さん(50歳)=大阪府
 当時法学部大学院修士1年 故・工藤純さんの吹奏楽部の先輩。
▽だいたい5年に1回、センター試験の頃来ている。
▽震災当時は倉敷の工場にいた。社員を連れて神戸に行こうとしたが入れなかった。火事で燃えている長田を船から見たのを覚えている。
▽工藤さんはとてもいい学生で、彼を失ったのはとても悲しい。
▽すぐそばまで来ていたのに、後輩を救えなかったのは無念で仕方がない。亡くなった方のことを、今の学生には語り継いで欲しいと思う。

●清水英志さん(45歳) 神奈川県川崎市。
▽4年ぶりに来た。来たら誰か(知り合い)がいるだろうと思い来た。
▽学部の同期生、所属していた応援団総部の先輩と後輩が亡くなった。
▽「25年だから」という意識はない。ただ思い出す機会が減ってきているのは確かだと思う。

●小平裕紀子さん(46) 清水さんと応援団の同期。愛知県。
▽10年ぶりに来た。「25年」に感じるところもあった。
▽学部の同期生と、所属していた応援団総部の先輩・後輩が亡くなった。
▽自分自身のライフステージが変わってきて、親としての気持ちがわかってきた。
▽愛知にいると(阪神・淡路大震災のことは)あまりニュースにならない。愛知で伝えたいし、自分の子供にも伝えていきたい。

●国司和丸さん(1997年卒) 故・高見秀樹さんの1期後輩の第36代応援団長
▽毎年1月17日には、(高見秀樹さんの住んでいたアパートのそばの)ともだ公園に来ています。で、そのあと、東遊園地に行って。同じ日にあれば献花式に行っています。
▽25年たって、(心境に)変化があるってわけじゃないですけど、(ともだ公園に来ると)近くに感じられるというか、自分の近況を高見さんに報告するような気持で毎年ここに来ていますね。

●松田殊里(ことり)さん=関西大の学生、広島県出身
▽加藤りつこさん(故・加藤貴光さんの母)の同伴で参列。東遊園地で加藤さんと合流した。
▽中学3年生の9月。貴光さんの生きざまと律子さんのお話を聞いて、自分が変わった。盈進(えいしん)高校1年の時、ヒューマンライツクラブに見学に行ったとき、加藤さん親子の冊子があって、入るしかないと思った。そこからずっと交流がある。
▽風化させるべきでないと思っている。震災関係の行事が少なくなっている。1.17の集いも行政でなく市民が続けている現状がある。次世代につなげるための種をまこう。そのために様々な世代と協力していくべきだと思う。

●高田義弘さん(57歳)=大阪市
 人間発達環境学研究科 准教授、神戸大卒業生、野球部監督、ボート部部長。
▽先ほど発達キャンパスから、(この慰霊碑に)来ました。授業の関係で来られない時以外は来ています。
▽亡くなった高見秀樹君(応援団)はよく試合で応援してくれていたし、アルバイト先の居酒屋に飲みに行くこともあった。上野志乃さん。川村陽子さんは学科の教え子だった。篠塚君は授業を受け持ったことがあります。無口で大人しい子でした。
▽私が子供のころはおじいさんから戦争の話を聞いていた。当時は「戦争なんて20年以上前のことだからわからない」と思っていたが、震災から25年を迎えて当時と同じ状況になってしまった。特に若い人たちは震災を経験していないので、熱量に差があります。記憶が伝わって行かないのではないかと大変不安に思っています。
▽震災のことは昨日のことのように思い出します。当時は十三(の自宅)から自転車で通勤していました。たくさんの建物が倒れ、平衡感覚を失うほどでした。また被害の度合いは武庫川を境に大きく異なっていて、別世界でした。
▽当時は学生委員として大学に残って活動していて、学生の安否情報をまとめる役割を担っていました。また学校の近くで学生を見つけたら、「大学に安否報告しなさい」、「友達にもするよう言いなさい」などと声を掛けて回っていました。
▽大学は大変だった。ちょうど二次試験を控えた時期。郵便局も被災していたので、出願書類が大学に届かず、センター試験の結果を受けた出願倍率の中間開示で0倍と出した。それを受けて応募が殺到。大阪大と岡山大に会場を分けて受験が行われることになった。中間開示以降に滞っていた出願書類と新たに殺到したものが届き、職員の方は単純計算で4倍の仕事量をこなしたことになる。すべて手で受験番号を振ってやっていた。大学職員は本当に大変だったと思う。
▽当時発達科学部の実技試験を行ったとき、グラウンドは自衛隊が占めていたが、「試験で使います」と言ったところ、スペースを空けてくれ、専門の車両できれいに整地して使わせてくれた。

【阪神・淡路大震災で亡くなった神戸大生、神戸商船大生のお名前】
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

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