【慰霊碑の向こうに】11 故・森 渉さん(当時法学部4年) =姉・祐理さんの証言=


(写真:森渉さんが大学3年の秋、姉・祐理さんのリサイタル会場で。1994年10月22日)

 森渉さん(当時22歳、大阪府立泉陽高校卒、五百旗頭(いおきべ)ゼミ/軽音楽部)は、神戸市東灘区本山中町4丁目9のイーストハイム1階西に下宿していた。
 1995年1月17日午前5時46分の阪神・淡路大震災の発災時、東京に住んでいた姉・祐理さんは軽い揺れを感じた。当初、大阪の実家の両親を心配していた祐理さんだったが、翌18日になって、叔母からの「気をしっかり持ちや。渉君、あかんかった」との電話。あわてて羽田空港から関西空港に向かうことになった。
 京都市芸術大を卒業後、NHK京都放送局でリポーターとして、1991年からはNHK教育テレビ(現・Eテレ)の小学生向け学校教育番組『ゆかいなコンサート』の歌のお姉さんとして活躍してきた祐理さんだが、弟・渉さんを亡くしてからは、全国各地そして海外の被災地でのコンサート活動を続けてきた。
 クリスチャンで福音歌手の姉・祐理さんに、震災直後の状況やその後の心境の変化、神戸大生へのメッセージをオンライン・インタビューでうかがった。


(写真:パソコンを通じてインタビューに答える祐理さん。2020年11月28日 大阪市北区のオフィスで)

「渉と連絡が取れない。祈ってて」

きき手)地震当日は東京におられたのですね。
祐理さん)前日の1月16日は、岐阜県の学校でコンサートをしていました。私は東京の自宅に戻って、朝5時46分、震度1ぐらいの揺れを東京でも感じました。「ああ、地震だなあ」と思いふっと目を覚ましたのですが、疲れていましたので、また寝てしまいました。まさか、その時間、その瞬間に、弟が天国に旅立ったとは夢にも思わなかったです。

祐理さん)8時30分ぐらいでしょうか、電話が鳴りました。電話は近くに住む牧師先生の奥様からでした。「祐理さん、関西が大変だよ。あなたのお父さん、お母さん大丈夫なの」という電話だったんです。慌ててテレビをつけたら、大阪が大変なことになっているという報道でした。その時のニュースでは、全然、神戸って言わなかったですね。
すぐ、当時大阪に住んでいた両親に何回も電話をしたんですけどもつながらなかったです。ようやく母と電話がつながったのが、夜中の12時近くです。「大丈夫?お母さん」と聞いたら、「こっちも揺れて大変だったわよ。それよりも神戸の渉と連絡が取れないけど、あの子のことだから色々助けに行ってるんじゃない。明日、お父さんが探しに行くから祈ってて」と心配そうに話していました。

「渉君、あかんかった。すぐ帰ってらっしゃい」

きき手)渉さんの異変を知ったのはいつでしたか?
祐理さん)次の日ですね。当時では珍しく携帯電話を持っていまして、レッスンに行った時にその携帯電話が鳴ったんです。電話は、私の叔母さんからでした。「祐理ちゃん。あんた気をしっかり持ちや」と叔母さんがゆっくり言ったんです。「何?」って聞いたら、「渉君、あかんかった。すぐ帰ってらっしゃい」って。「あかんかったって何?」と聞き直しましたが、そこからは頭が真っ白になって…。すぐにレッスンを中断して、自宅に戻りました。

きき手)そのあとどう行動されたのですか?
祐理さん)まだ、羽田から関空には飛行機が飛んでいたので、次の日(19日)の朝一番の便を手配して、荷物をまとめて羽田から関西へ向かいました。

毛布で包まれた弟の遺体が運ばれてきた

きき手)ご実家に戻られるとどんな様子でしたか
祐理さん)当時実家は堺市の泉北ニュータウンにありましたので、関空から近くて、午前中には家に戻れました。家に入ると、母が倒れたように、横になっていました。「お母さん大丈夫?」って聞いたら、「今お父さんから電話があった。渉を運んでくるから、あんたが迎えに出てちょうだい」とだけ言いました。母はほとんど喋れなくて、動くこともできず、奥の部屋で寝ていました。そんな母の様子に、とにかく私がしっかりしなきゃって思って、玄関で座っていました。

きき手)渉さんが到着されたのは?
祐理さん)時間とかよく覚えていないんですけど、車の着いた音がして。そしたら、教会の(手配してくれた)車から男の人4人ぐらいで弟の遺体が我が家にかつぎこまれたんです。

きき手)ご遺体はどんな様子でしたか?
祐理さん)頭から足まですっぽりドロドロの毛布で包まれて弟の遺体が運ばれてきました。その光景を見た瞬間に「ボーン」って心に穴があいたような気がしたんです…。


(写真:倒壊した渉さんの下宿アパート。神戸市東灘区本山中町。1995年1月18日撮影。)

父は人生で初めてヒッチハイクをした

きき手)お父様(父・茂隆さん=2016年病没=)はどのようにして、神戸の渉さんの下宿まで行かれたのでしょうか?
祐理さん)最初、父は堺市の高倉台の自宅から車で神戸に向かおうとしましたが、どこも渋滞で。いったん家に戻って車を置いて、電車で行ったそうです。その時は(阪急の)西宮北口まで電車が通っていて、そこから東灘区本山中町にある弟の下宿まで行ったと聞いていました。何年も経ってから父がボソッと言ったのです。「あんなところから歩いて行くのは無理や」って。お父さん歩いて行ったんじゃないの?って聞いたら、「わしは人生で初めてヒッチハイクをした」って聞いて、びっくりしたんです。本当に昔ながらのおとなしい昭和タイプの父ですが、やっぱり我が子を想う気持ちはすごいなって思いました。皆さんも写真とかでご存じだと思いますけど、地獄のような状況の中で、父は通りがかりのトラックに「乗せてください」って頼んで、その車に乗せてもらって、東灘区の近くまで行ってもらったそうです。そこから歩いて弟の下宿に辿り着いたと、後から教えてくれました。

父ががれきをかきわけて発見した

きき手)下宿アパートはどんな様子だったとお父様は話しておられましたか?
祐理さん)着いた時は、下宿はもうぐちゃぐちゃだったそうですけども、近くにある大家さんの家はちゃんと建っていて、すぐ大家さんが出てこられたと話していました。「森君はバイクが(置いて)ないから、逃げたんじゃないかな」って言われたそうですが、父は悪い予感がしたそうです。

きき手)お父様はどう行動されましたか?
祐理さん)2階建ての木造の下宿で、1階は完全に潰れていて、2階がそのまま地面にのっていたって言っていました。2階の窓をこじ開けて、潜り込んだそうです。がれきだらけのところを、父がかき分けたら、すぐに足が手にあたった。渉がまだ中に埋まっていたって。だから、父が第1発見者でした。

遺体を地面に置いて カイロでその足を温めていた

祐理さん)弟の下宿は1階でしたから、完全に2階に押しつぶされて、結果的に圧死という診断でした。身体ががれきに埋まっていましたから、どんなに足を引っ張っても、到底出すことはできないです。父は下宿からはい出して、近所の人に「すみません、誰か来てください!」と叫んだら、すぐ大家さんの息子さんがびっくりして来てくださった。はっきり覚えてないんですけど、警察関係か消防関係の仕事をされていたので、ジャッキで家を持ち上げながら、弟を掘り出すように助けてくださったと言っていました。大家さんの息子さんがいなかったら、弟を出せなかったって思います。3時間ぐらいかけて出したんですが、出てきた時は、完全に冷たくなっていたと話していました。

きき手)搬出された後は?
祐理さん)お父さんそれからどうしてたの?って聞いたら、弟の遺体を地面に寝かせたと。そして「わしもその場に座っていた」って。寒かったんとちがうの?って聞いたら、「大家さんからカイロをいただいた。そのカイロで渉の足を温めていた」って。絶対に温かくなりようがないのに…、父の想いはどんなだったかと思います。
レスキュー隊が来て、遺体を安置所に運んでくれるまで、ずっとその場所で待っていたって言っていました。その日は1月18日ですね。

祐理さん)神戸商船大学が遺体の安置所だったので、そこに運ばれて、一晩渉と過ごしたと父は話していました。その翌日の1月19日、すぐに教会の皆さんが(大阪の堺市から現地に車で)駆けつけてくださって、遺体を我が家に運ぶことが出来ました。父は、「自分の手で発見出来て良かった」って言っていました。


(写真:地震の3か月前。当時の実家の前での渉さんと祐理さん。1994年10月1日、堺市高倉台で)

微笑んでいるような感じで眠っているように見えました

祐理さん)とってもハンサムな弟でしたけどね。弟の顔にアパートの柱が落ちてきていましたから、私の眼には、ここが(顔が)腫れていて、少しダメージがあったように見えました…。それ以外はほとんど無傷で、口はとても綺麗に、微笑んで眠っているように見えました。

きき手)すぐに対面されたんですか。
祐理さん)実は、親戚の人たちが、祐理ちゃんがショックを受けて歌えなくなったらいけないからって心配して、渉と会わせてくれなかったんです。弟の遺体は、一番奥の部屋にドライアイスで固められて、4日~5日間置かれていました。

きき手)葬儀までに時間がかかったんですね。
祐理さん)ものすごくお葬式場が混んでいたんです。亡くなった人が半端のない数でしたから。神戸ではお葬式場自体が被災していました。大阪は大丈夫だったのですが(多くの葬儀が行われることになって)、ようやくお葬式場が5日後ぐらいに取れて、葬儀をすることができたのです。その間、弟の遺体は我が家にありました。明日がとうとうお葬式というギリギリの時に、たまたま家に誰もいなくなって、今だ、と思って奥の部屋に行きました。弟の顔に白いきれがかかっていたんですけど、そのきれを取ると、口が微笑んでいるように見えたんです。その口が、「お姉ちゃん。俺死んでないよ。もっといいところに行ったから。心配するな」って話しているように感じました。


(写真:渉さんの就職活動のスーツ姿の写真。)

就活のスーツとともに棺に納められた

きき手)渉さんは、就職活動では新聞社に内定していましたよね。
祐理さん)読売新聞社の記者として研修も始まっていたので、入社式にこれ着て行くんだってスーツを仕立てていたんですね。ブルックス・ブラザーズというブランドの。お姉ちゃん、これかっこええやろって、私にも自慢していました。そのスーツを着て、お棺に納められました。

祐理さん)日本は火葬なので、お棺の中を見た瞬間に、ただの灰だけで、目に見えるものは虚しいと思いました。でも、目に見えないものがある。命は絶対に灰になってしまわない。今でも、弟の命は輝いている。その命の分まで歌っていこうと思ったのが、私の新しいスタートだったんです。今、ライフワークの一つとして、さまざまな被災地での支援コンサートを行っていますが、それは弟の命を受け継いでさせてもらっているんだなと思います。

きき手)お父様は辛いことはあまり表情に出されない方だったそうですね。
祐理さん)父は何かあったらすぐに書斎に引っ込んでしまうような、昔ながらのお父さんって感じだったんです。父が白血病で亡くなって4年になるんですけど、亡くなる前の日に牧師先生が来られて、「森さん。死ぬのが怖いですか」と聞かれました。じーっと父は考えて、「渉と会えるのが楽しみです」って。一番人生で辛かった息子の死。それが自分の死を目の前にして希望になっている。死を乗り越える希望があることを感じました。泣きたい時に涙をこぼすことが出来ないような不器用な父でしたけれども、今、天国で弟と一緒に応援してくれているんだなって、そう思います。

3人きょうだいのかわいい末っ子だった

きき手)渉さんはどういう弟さんでしたか?
祐理さん)神戸大学の当時教授でいらっしゃいました五百旗頭真(いおきべ・まこと)先生に憧れて、五百旗頭ゼミに入りたいといって、神戸大学に入りました。色々な書物を読んで、どうしても分からないところがあったら、「親父(五百旗頭先生への愛称)、これはどういう意味なんだ」って、五百旗頭先生に食らいつくような子でした。だから、先生は今でも渉のことを大切に思ってくださっています…。

きき手)一緒に写ったお写真もありますね。
祐理さん)私にとっては小さい頃からかわいい仲良しの弟で、私のバレエのレッスンにもくっついて来るような子でした。「尊敬するお姉ちゃんだからなぁ」って言ってくれて、私も励みになっていました。初めてのリサイタルをしたのが、1994年神戸の風月堂ホールです。その時に、渉がカメラマンをしてくれて、その写真もまだ残っているんですけど。3人きょうだいで渉は末っ子だったので、母にとっても可愛くて可愛くてしょうがなかったようです。大学の友達からは、「わたる」じゃなくて、「わるた」と呼ばれていたようですが…(笑)。

きき手)渉さんと最後に会ったのはいつでしたか?
祐理さん)1995年のお正月に実家に帰った時です。渉も神戸から帰ってきていて、私も東京から帰って。お正月は母と一緒におせち料理を作るんですけど、その時に、渉がつまみ食いをして、「お姉ちゃん腕上げたな」って言ってくれたのがうれしかったです。それが、最後の会話になるとは夢にも思わなかった…。


(写真:幼い頃の、きょうだい3人と母・尚江さん。)

葬儀には被災地から駆けつけた学生たちの姿も

きき手)渉さんのご葬儀の時には、多くの方が参列されたそうですね。
祐理さん)会場には入りきれないで、外にいっぱいあふれるほどの人が来てくださいました。特に神戸大学のお友達は被災した方が多くて、まだそんなに電車も通じていなかったので、「お姉さん。歩いて来ました」っていう軽音楽部のお友達が結構いましたし、喪服も無くって普段着のジャンパーを着たまま駆けつけてくれたお友達もおられました。こんなに弟は愛されているんだって知ることができて、父も母も慰められたんじゃないかと思います。

祐理さん)父が、「葬式で歌を歌って慰めてくれ」と言ったんですね。私はとっさに、「歌えるわけない。泣くに決まってる」と答えたんです。でも自分の部屋に入って、一人になった時に情けなくなりました。泣いて上手く歌えないから歌わない…。こんな時でさえ格好をつけている自分が恥ずかしくなりました。弟の旅立ちのセレモニーで歌を歌うことこそが大事なんだ。きっと弟も喜んでくれるはずだって思って、歌う決心をしました。歌ったのは関東大震災の時に作られた「遠き国や」という聖歌です。半分ぐらい泣いていたんですけど。歌は技術じゃない、心だってことを身を持って知った瞬間でした。

被災地での歌の活動 「弟の死は無駄になっていない」

きき手)大事な弟さんとの別れの時は、どのような思いでしたか。
祐理さん)私たち家族はクリスチャンなので、天国でまた会えるって信じています。天国でまた会った時に、「お姉ちゃん、泣いてばかりや…じゃなくて、ようやったなあ」って言ってもらえるように歌い始めました。それが、私の大きな原点に今でもなっています。いつも私の心の耳に、「お姉ちゃんようやったなあ」って言葉が響いていますね。

きき手)渉さんの死を受け入るのには時間がかかったのではないでしょうか。
祐理さん)弟が亡くなったという現実を突きつけられて目の前が真っ暗になっている自分と、絶対に死は終わりじゃない。弟の命の実を見る希望があるんだと想って、なんとか自分を奮い立たせようとする私と、そんな入り混じったような想いが、あの日、あの後、ずっとあったと思います。今は時間が経って、その命の実をたくさん見ることが出来て、「弟の死は無駄になっていない」と心から思えるようになり、本当に感謝しています。

きき手)被災地で歌を歌われる活動は、いつから始められたのですか。
祐理さん)震災が1月17日に起きて、一番最初に歌ったのは名古屋で、2月でした。それが、震災後初めて人前で歌った「神戸のためのチャリティコンサート」です。神戸の被災地で歌ったのは3月ですね。????そこから、ずっと歌い続けて。
神戸以外の被災地にも、ずいぶん参りました。鳥取の西部地震、中越地震、中越沖地震、能登半島地震、東日本大震災…。東北の被災地だけでも数えたら130回ぐらい現地でコンサートをしています。海外も、四川省の大地震、インド洋の津波、台湾の大地震。このコロナ禍になって、今年一年ほとんどコンサートが出来ない状況なんですけど、10月30日と11月1日に長野の千曲川氾濫、水害被災地に行って、コンサートをさせて頂きました。


(写真:渉さんが撮った森祐理さんのステージ写真。1995年の年賀状にプリントされた。1994年10月22日撮影)

弟は十分に生きて、天国に旅だった

きき手)もしこうだったら渉さんが助かっていたかもしれない、と考えてしまうことはありますか?
祐理さん)「たまたまその日だけ二階に寝ていたから助かったとか、たまたま倒れてきたタンスの間で守られた」とか、そういう話を聞くと、じゃあどうして弟は?と思いますけどね。でも、一人一人に与えられた命の時間があるのだと思います。弟は短かったですけど、与えられた時間を十分に生きて天国に旅だったと思います。どうして弟だけ助からなかったの、って思うのでなく、弟は自分の命を全うしたんだと考えるようになりました。

大学の慰霊碑 弟は亡くなったんだって認識させられる場所

きき手)神戸大学の六甲台キャンパスにある慰霊碑はどんな存在ですか?
祐理さん)毎年神戸大学の追悼会も時間が許す限り参加させていただいて、献花もさせていただいています。そこに弟の名前が、「森渉」って刻まれているのを見ると、ああ、弟は亡くなったんだって認識させられる場所のような気がして…。でも何年か前、神戸大学の追悼式の時に、慰霊碑の前で歌わせていただきました。「森渉」って書かれた慰霊碑の前で、「ふるさと」「幸せ運べるように」を歌わせていただいたというのは本当に特別な経験だったと思います。弟が学んだ場所で弟の名前が刻まれたところで歌えたっていうこと。慰霊碑の前に行くとあの時を思い出して胸が熱くなります。


(写真:神戸大学六甲台第1キャンパスにある震災慰霊碑。プレートには亡くなった学生の名が刻まれている。2019年12月撮影)

悲しみは悲しみで終わらない

きき手)震災の前後で、どういった心情の変化がありましたか?
祐理さん)私にとっては、戦前と戦後くらいの大きな違いがあります。様々な面での意識が変わった気がします。それまでは、お客様に対しても、「私の歌を聞いてちょうだい」っていうような気持ちがあったと思うんですね。でも、たとえ泣きながら歌っても、歌は心つなぐものなんだ、と思うようになりました。それは弟の死があったおかげです。弟の死と命を通して、悲しみは悲しみで終わらないんだと思えるようになりました。悲しみを通してしか開くことのできない扉がある、すべては次の階段を登るステップなんだってことを、心に刻むことができたようなそんな気がします。


(写真:パソコンを通じてインタビューに答える祐理さん。2020年11月28日 大阪市北区のオフィスで)

神戸大生は、39人の命を受け継いでいってほしい

きき手)多くの若い世代が阪神・淡路大震災を知らずにいるということはどう思いますか?
祐理さん)皆さんがお生まれになる前ですものね。確実に時は流れていって記憶は薄らいでいきますから、語り継いでいってほしいとすごく思います。神戸大学では39人が亡くなりました。その命を受け継いでいってほしいです。今、これだけ各地で災害が起こっています。その災害の恐ろしさを毎年強く感じてらっしゃると思います。ある意味、昔の人たちよりも災害を目の当たりにして生きている…、そんな若い世代が、これからジャーナリストとして、あるいはビジネスマンとして、それぞれの置かれた場所で発信していってほしい。この神戸の地で学びをしたっていうその思いを、心のどこかに刻んで、これからの人生を生きていってほしいなって願います。

大学生は、同じ大学生にしか届かない言葉を持っているはず

きき手)コロナの感染拡大もあって、人と人との繋がりが少なくなっている中で、僕たちにアドバイスをいただきたいです。
祐理さん)やっぱり同世代の人が言っている言葉には耳を傾けると思います。だから大学生の方々は、同じ大学生にしか届かない言葉を持っていると思います。阪神大震災は、過去の出来事じゃなくて、今、向き合うべきことだと思います。コロナも含めて恐ろしい状況にある中で、一体何を見つめるべきか何をするべきかっていうことを、大学生の皆さんが、考えて発信してほしい。そう思います。(新型コロナウイルスの感染拡大で)授業が受けられなくなったことや友達に会えなくなったことも残念ですが、それ以上に、今のこの状況の中でもできることを探していってほしい。そしてこの状況を乗り超えた後に、何が一番大切で自分たちはどう変わっていったら良いかを考え、発信していただきたいなってすごく思います。

祐理さん)天国の弟も、「後輩たち、頑張れよ」って応援しているように思いますので、ぜひ天国からのエールを受け止めて頑張ってください。

(2020年11月28日インタビュー)

<2021年1月10日 アップロード>

【連載】慰霊碑の向こうに…震災の日、学生たちの命は<リンク集>
    https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d120245265afb7ff5322fd1fd5f48ebd

(写真下:オンラインで行われたインタビュー。2020年11月28日)

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