【慰霊碑の向こうに】12 故・藤原信宏さん(当時経営学部4年) =父・宏美さんと母・美佐子さんの証言=


(写真:就職活動をしているころのものと思われる藤原信宏さんの写真。)

 藤原信宏さん(当時22歳、三重県立津高校卒、森ゼミ)は、神戸市東灘区御影石町にあった上原肇さん方の下宿アパートに住んでいた。
 1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、実家のある三重県津市も震度4の揺れを観測。テレビで神戸の街の状況を知った父・宏美さんはすぐに信宏さんに電話をするが、呼び出しの音はするもののつながらない。
 翌18日。阪急電車が西宮まで通じたと聞いて、宏美さんは信宏さんのもとへ向かうことを決心する。西宮北口駅から3時間近く歩いてようやくたどり着いたが、2階建てだったはずのアパートは1階分しかなかった…。
 父・宏美さんと母・美佐子さんに、オンラインでお話をうかがった。<取材班>


(写真:オンラインのインタビューに答える宏美さんと美佐子さん 2020年12月)

すぐに電話。何度か呼び出し音が鳴ったんですが…

きき手)地震があった1995年1月17日の火曜日、藤原さんの実家の津市でも震度4の揺れがあったんですね。
宏美さん)あの、私たち2階に寝てるんですが、かなりガガっときたんですね。降りてきまして1階のテレビをつけたら神戸と出て、ええっという感じで。それですぐに電話をかけたんです。何度か呼び出しの音が鳴ってたんですがそのうちに途切れるという状態だったですね。で、そのテレビ画面で、火事が映し出されて、これはえらいことだなという。ただ、まさか自分の子供がとかいうようなことはなくて…。まあ朝はそんな状態だったですね。

宏美さん)私はもともと公務員でして、東海財務局というところにおったんですが、大蔵省です。そこを辞めまして転職して、信用金庫の松阪市の本店に勤めておりました。一応状況が分からぬままにとりあえず出勤しました。
きき手)すると17日はそのまま勤務を続けられて?
宏美さん)そうですね。

よくよく見たら1階がなかった

宏美さん)どうにも心配といいますか、それでその夜もテレビに出てくる名前とかをちらっと見ては目を伏せてという状態を繰り返してたんですが、翌日(18日)だったですかね、阪急電車が西宮まで通じたということで、とりあえず様子を見に行こうということになりました。
美佐子さん)そうですね。
宏美さん)私一人だったんですけど、津を朝7時すぎだったか出発して、近鉄の鶴橋駅からJR大阪駅、阪急に乗り換えて西宮北口駅で降りて、それでたくさんの方が歩いてるのが見えまして、それについてく感じやったんですけど。迷うといけませんのでJRの線路を歩いた感じで行きました。たしか3時間近く歩いたんです。
きき手)線路でどこまで行ったんですか。
宏美さん)六甲道の手前。住吉あたりで降りたんだと思いますが。
きき手)御影石町4丁目の下宿に着いたのが…
宏美さん)お昼過ぎ、1月18日の午後2時過ぎぐらいだと思いますね。

きき手)その時の街の様子はどんな感じだったですか。
宏美さん)あのほんとに森閑としてる感じでして、全く人が見えなかった。で、下宿にたどり着いたんですが、一瞬見てあれ?何ともなってへんやないかと。で、よくよく見たら1階がなかったという状態ですね。隣近所もだいぶ傷んで、ちょうど道沿いにあるんですけど隣の家は倒れかかってましたね、たしか。

下宿選び ほんの一足違いで選んだ1階の部屋

きき手)記録によりますと、御影石町4丁目の上原さん宅となっています。アパートだったんですか、それとも民家の下宿だったんですか。
宏美さん)あの2階建ての木造で、信宏は1階だったんです。2階にお二方みえたと思うんですが、1階は…。
美佐子さん)信宏一人。
宏美さん)2階の方は助かったというふうに聞いてますので。
きき手)アパートには、なんとか荘とかいう名前は?
宏美さん)あ、名前はついてなかったですね。ただ神戸大生の方ばかりだとは聞きました。
きき手)それぞれ部屋の入口は独立していた?
宏美さん)そうです。一応、二間ぐらいありましてお風呂はないんですけど炊事場とトイレはあった。

きき手)このアパートはどういうふうにして選ばれたのでしょう。
美佐子さん)大学の生協の紹介だったと思います。えー、息子と私たちの3人で、その日(下宿選びの日)は雨が降ってたんです。
きき手)合格発表のすぐあとですか?
美佐子さん)合格発表から1日置いてから大学のほうに行ったもんで、すぐ行けばよかったんですけど。1日置いたもんでもうほとんど(空きがなくて)、生協の方がちょうど空いてるからと言われましたので、そしたら信宏もそこでいいといいましたもんで、決めましたんですけど。
宏美さん)生協に行ったのが時間的に遅かった。そこで2件ほどご紹介いただいたんですが、そのタクシーを呼んで走ったんですけど、全く土地状況が分かんない上に雨が降ってる。そんなもんで2軒を比較する余裕がなくて。初めに行ったところで、息子も気を使ったんか、ここでいいと言いまして。

宏美さん)その大家さんのとこに行きましたらほんの一足違いで2階が埋まったんですよという言い方だったと思いますね。ただ、1階はすぐ横が道なもんですから人通りがそのまま聞こえちゃうんで、落ち着かないしって言ったら、今入ってる方が来年ぐらいに出られるんでその時に2階に移ってもらったらいいですよ、と。かなり古い造りやったな。
きき手)道路に面していたということは、窓は明るい感じだったんですかね。
宏美さん)ただ窓を開けておけない、すぐそばを(道ゆく人が)通られますもんでね。で当然クーラーとかそんな贅沢できず、換気扇だけつけてあげたな。
美佐子さん)冬はストーブ…
宏美さん)後で考えるとなんかもうちょっとしてやればという。全く知らない街で、とりあえず雨も降ってる。ほいじゃここでお願いしようかという感じでしたですね。

翌日の自衛隊一斉捜索を待つ

きき手)倒壊した下宿の様子を見たときは、どういったお気持ちでしたか。
宏美さん)とりあえず東灘の警察と消防へ行ったんですが、言われたのが物音とか声が聞こえますかと。であればすぐに手配しますと。いや、まったくしんとしています、と言ったら、それじゃあ明日自衛隊がそこに入りますのでと。一斉捜索やりますからということでと、こういう話だったんですね。

宏美さん)薄暗くなってきたんで、また同じ道を歩いて家へ帰りついたのが10時ぐらいだったと思います。
宏美さん)翌日もう1回、(神戸に)行くということで。家内と娘と、家内のほうの兄二人が一緒に行ってくれるということで、また同じようなコースで行ったという状態ですね。
きき手)おなじ鶴橋駅から大阪駅、西宮からさらの2、3時間歩いて?
宏美さん)そうです。同じぐらいの午後2時ごろだと思います。組長さんという方にお目にかかれて。たまたま5人でうろうろしとったら、どうされました?と声かけていただいて。「先ほどもう自衛隊は行っちゃいましたよ」ということでしてね。で、ご近所の方の話やと、学生さんは無事でむしろ助けてみえたと。
きき手)周りを助ける側に回っていたと。
宏美さん)ええ。ですから大丈夫ですよと言われて。でも、実はこういう事情で音沙汰がなくて…ということを言いましたら、えっ?ということで、その組長さんの息子さんが走ってくださいまして、自衛隊を呼び戻してくれたんです。事情話しましたら、わかりました、捜索しますということで。
宏美さん)後で聞きましたら不思議なことに、津市の隣の久居市(現在は津市と合併)の陸上自衛隊の駐屯地がありまして、そこから派遣された隊の方でした。
きき手)捜索を始められたのは何時ぐらいでしたか。
宏美さん)おそらく午後3時過ぎてたぐらいじゃないですかね。

きき手)組長さんというのは、自治会の会長さんですか?
宏美さん)自治会にはそれぞれに班とか組がありますね。おそらくその下部組織。Aさんとおっしゃる方の奥さんで、すごくご親切な方でした。信宏の下宿から歩いてほんの10mとか、ほんとに近いとこやったです。裏手ぐらい。そこのお宅も一間だけであとは崩れてましてね、そういう状態でしたんやけど、「ちょっとここで休んでいきなさい」とか、毛布もいただいてだとか、すごく親切にしていただきましてね。

遺体との対面 泣かなかった。涙も出なかった。

きき手)午後3時ぐらいから捜索を始めて…。
宏美さん)はい。おそらく1時間ぐらいだったと思います。まだ暗くはなかったです。
きき手)信宏さんを発見したのは自衛隊の方ですね。
宏美さん)はい。今でも覚えてますけど、若い隊員さんがビビってしまって隊長さんに怒られてですね。遺体を発見した時にはビビりますよね。若い方ですから。で、その隊長さんが来てくださって、誠に残念ですがご遺体を、という。
きき手)じゃあ隊長さんから報告があって。
宏美さん)それで警察の方に連絡を取っていただいたんですが、警察の方も外部からの応援の方で、詳しいことが全く分かりませんと。で遺体を安置する場所がありませんということで、車もありませんと。自衛隊の方は担架で、御影高校が近いもんですからそこなら運んであげますけどね、という状態で身動きができなかったんですが、ご近所の方でNさん、神戸製鋼の役員さんとおっしゃってましたけども、車を出してあげると言ってくださいました。
美佐子さん)車で遺体を運んでもらった。
宏美さん)神戸にはすごい方が見えるんやなというか、亡くなってる人を自分の車に乗せるって…。ともかくその方に助けていただいて、車で運んでいただいた。
きき手)保健センターはどこにあったんですか?
宏美さん)車で10分ぐらいじゃないですかね。で、そこの体育館に(遺体が)ずらーと並べられてたという状態だったですね。安置してもらったときには。

きき手)隊長の方から報告があったときは、現実を受け止めきれましたか。
宏美さん)まさか嘘だろ。でも目の前におるわけですからね、本当だなと。全く一日音信断ってますから不安感があったのは事実、それが現実化した。何とも言いようのない…。ただ泣かなかったよな。涙も出なかった。ただね、(立ち会っていた)娘の体をぎゅっと抱きしめたような…。空が薄暗くて夕方でしたでね。それだけです、印象に残ってるのは。空がほんとになにか薄ずみで、燃える夕焼けじゃなくて日暮れ時…。寒かったですよね。

体育館に遺体を安置 冷たく髪の毛もカチカチになって…

美佐子さん)遺体を保健センターの体育館に運んでもらって…。
宏美さん)そこで一晩明かすんですけど、それが私と美佐子の兄貴、であと家内と娘とそれからあともう一人の兄がいて。(体育館に)5人もおってもしゃあないでしょと。で娘が翌日受験があったもんですから帰らないかんということもありまして、じゃあ私の家に泊まって翌朝送ってあげますというようなことででした。結局遺体に付き添ったのは私と兄貴が一晩。で家内と娘ともう一人の兄は、Nさんとこにお世話になって、それで翌日Nさんはご親切に西宮まで兄貴と娘の二人を送っていただいて…。

きき手)Nさん宅に3人泊めてもらって、遺体が安置されている保健センターでは、2人が付き添われたんですね。
宏美さん)はい、19日の夜は一晩明かしたということですね。私の子は胸の圧迫死なんですけど、自分の印象としては冷たいというのと、髪もカチカチになるんですよね、髪の毛が。それがすごく印象に残ってるんです。


(写真:大学時代の信宏さん)

燃えがらのお骨とともに座る若い夫婦もいた

宏美さん)その向かい側に若いご夫婦が座ってみえまして、どうも子どもさんが亡くなられたみたいでですね、火災で亡くなったようで。お骨ですか、それが印象深くて。身じろぎもせず、ずっと座ったままでした。
きき手)安置所の信宏さんの向かい側ですか?
宏美さん)はいそうです。炭というかその燃えがらの中にお骨があった。
きき手)遺体というかたちでなくてもう…
宏美さん)そういう状態の方が結構みえたという。火でやられますとね。
きき手)そんな中で、何時間も皆さんご一緒に検視を待つことになったわけですね。

検視は遺体を医学部まで運んで…

きき手)検視は、その体育館で行われたのですか。
宏美さん)どういった手続きをしたらいいんですかと警察の方に伺ったら、私ら応援なんで詳しいことが分からんと。それで、その夜中に東灘の警察に行ったんです。兄貴に付き添ってもらって。そしたら、遺体検案書っていうんですか、それがないと荼毘にふせませんということでですね。で、その検死されたのが神戸大学の医学部の先生だと聞きました。

宏美さん)夜中に公衆電話で、私の勤め先に連絡をとって葬儀社に手配を頼んで、事情がわかったので迎えに行きますということで。(電話を並び直して)神戸大(の医学部)にも事情をいいましたら、取りにきてもろたら(検案書を)出しますということでした。朝方着いた葬儀社の車に乗って医学部へ向かいました。(車は)遺体を運ぶというか、棺を載せられる…。
きき手)長いボディの?
宏美さん)はい。ちょっと長いやつですね。仮やったかな、仮に棺に入れてもらってそれで連れてきたんです。
きき手)それはいつになりますか?
美佐子さん)20日やね。
きき手)葬儀会社の車は神戸まで来てくれたんですね。
宏美さん)やはり同情もあったでしょうし、取引先ということもありましてね。水と食べ物も積んできてくれて。よう来てくれたという感じで、道がぐちゃぐちゃなもんで。
きき手)通行できない道もいっぱいあったでしょう。
宏美さん)その深夜に出てもらって、連絡取れてすぐ手配してやってくれておそらく夜中には出てますやろうけど。4、5時間かかってるんですかね。

顔は綺麗でした。胸元が砂と血だらけで

宏美さん)検案書がもらえたのは20日朝の4時か5時でした。大学の医学部に行くと、もう用意してあったという感じでしたね。
きき手)検案書にはどう書かれてあったのですか?
宏美さん)圧死だったと思います。
きき手)ご遺体の様子は?
宏美さん)顔は綺麗でして、胸元が砂と血だらけですか。どうも胸の上に梁が落ちたと。ベットやったらよかったんかもしれませんが、布団で寝てましたので。ベットやったらベットの縁で止まる可能性もあったわけですね。だからもろに梁が胸の上に落ちたという…。確かそういう説明だったと思いますね。胸部圧迫死。だから痛いとかなく一瞬だったでしょうね。


(写真:神戸大学医学部。「阪神・淡路大震災 神戸大学医学部記録誌」から)

きき手)その津市のご自宅に、お父様とお母様と伯父さまとで何時に戻ってこられたんですか?
宏美さん)だいたい夕方、20日の午後3時か4時ぐらい。車が(渋滞で)動きませんでして、ずいぶんかかった。

きき手)ご自宅ではどなたが待っていましたか?
宏美さん)留守番してもらっていた私の姉夫婦です。
きき手)その時じゃあ妹さんは受験会場にいたんですか?
宏美さん)あ、そうなりますね。
きき手)じゃあ帰ってきてお兄様と対面されたと?
宏美さん)そういうことになりますね。ちょっとほんとに記憶ないな。
きき手)でも受験という大変な時に、妹さんはおつらかったでしょうね。
宏美さん)あの東大阪の近畿大学(薬学部)なんですが、「息子さんを亡くされてよく一人娘を出しましたね」という話をされる方がちょこちょこありましたけど、結局そういう状態で受験して、とりあえず本人も行きたいいうし…。
美佐子さん)告別式済んでから近畿大学に合格したって言ってた。
宏美さん)そうやったんや。
美佐子さん)2つ、3つぐらい受けて…。
宏美さん)一つだけ通ったんだよね。

1月23日に告別式 300人から400人が参列した

美佐子さん)連れて帰ってきたときは体を拭いてきれいにして、自分らだけでお通夜をした。
宏美さん)それが20日やろ。
美佐子さん)その翌日に。
宏美さん)かなり日が経ってるんですよね。17日に死にましたからね。いかに冬といえどもね。冷やすやつ(ドライアイス)でやってもろてるんですけど、もう限界やっていわれたんかな。
美佐子さん)そうそう。それでお骨にして。

宏美さんの当時のメモには、震災3日後の1月20日に自宅に帰ってきて、21日に密葬、荼毘に付して、22日にお通夜、23日が告別式だったと記されている。

きき手)葬儀の様子はどうでしたか。
宏美さん)私は信用金庫に世話になってからまだ2年目ぐらいだったんですよ。でその前に名古屋にある大蔵省の機関の東海財務局にいたんですが、当然そこにも連絡はいきます。それから神戸大の方も無理なところかなり来ていただいたし、それからTAC(タック=資格取得のための予備校)というところで受験勉強をしてたお友達。当然中学、高校という地元の同級生も。(駐車場がなくて)国道とかお寺さんのそばに結構広い道があるんですけども、そこが車でもうすごい状態だったというのはあとで聞かされましたね。
きき手)何百人という?
宏美さん)整理させてもらった名簿で300とか400ぐらい(の参列者)でしたね。


(写真:宏美さんのダイアリーのメモ。遺体確認は1月19日午後3時ごろとある。救出にあたった自衛隊の説明は「胸部に本箱が倒れ、その上に2F部分が…」と記されている。)

あれ欲しいこれ欲しいと言わない子でした

きき手)信宏さんはどんな息子さんでしたか?
宏美さん)私から言わすと、おとなしいというか、まじめ…。だから正直仕送りそんなにしてませんし贅沢もさしてなかったけど、愚痴一つ言わんかったな。物送れとかそんなんも言ってこなくてですね。
美佐子さん)あれ欲しいこれ欲しいとか何にも言わなかったですね。大学の1年か2年生でしたかね。自分が欲しいものがあるんやけどなあ、一回見に行こうかって言って買いに行きましたね。
きき手)何を買いに行かれたんですか?
美佐子さん)服を買いに行って。多分、松菱かイオンかと思いますけど。普通のジャンバーか軽い物ですね。普段着でええ言うて。買いましたけどね。2、3枚買って。で、もう俺ええわ言って帰っていきましたけど。あれ欲しいこれ欲しい言う子じゃなかったんですよ。

宏美さん)アパートそのものもそんな立派じゃないし、その愚痴もあんまり聞いたことない。
美佐子さん)いったん(アパートを)かわったらどうや、もっといいとこあるんじゃないかって言ったんですけど、そのままでいいと言うもんで親もほっといたんですけどね。それがあかんのですね。
宏美さん)だから大家さんが言うていただいた1年後には2階が空きますよというときに、「かわるか?」といったんやけど、「もういい」と。「慣れたからもういい」と。

アパートには寝に帰るぐらいやったみたいです

宏美さん)どうも1年、2年で教養の単位は全部取って、それで3年、4年はもう(アパートに)いなかったみたいなんですね。大学の図書館とか、大阪のTACへ通うということで、ほとんど(アパートには)寝に来とるぐらいやったみたいですね。あとで聞いた話では。アパートでは夏は暑い、冬は寒いですからとてもじゃないけど。
きき手)そうなんですね。
宏美さん)そういうこともあって、(部屋を)移らんでもいいわということやったかもわかりませんね。ただ親としては、無理でも移らしとけばね…。

きき手)その公認会計士を目指そうとおっしゃられたのはいつごろかわかりますか?
美佐子さん)それが全く分からないんです。
宏美さん)知らなくてですね、通信添削の資料をたまたま見たら希望職種が公認会計士と書いてあったもんですから。だから親は私は公務員ですし全く縁がありませんので、結局そのことについてあんまり話しませんでした。
きき手)信宏さんの学部は経営学部でしたね。
宏美さん)高校の進路の三者面談の時に「息子さんは一橋大学を希望されてますけど」と。私は「東京にはよう出しませんわ」と。できれば名古屋大学を受験さしたいとこういったんですが、出てきたのが神戸大学。何を思ってたんかもう決めてたんですかね志望を。そんなに意思が強い子じゃなかったんですけどね。
きき手)進路に関しては譲れないものがあった?
宏美さん)というかもう自分で決めてその道行くんやという。私が東海財務局で公認会計士の試験監督をやる部署におりまして、で公認会計士の試験の難しさは知っていました。革靴で歩くとで「すみません静かにしてください」というぐらい雰囲気のきつい試験です。
きき手)ピリピリした感じですね。
宏美さん)試験は3日間ぐらいあるんですよね、真夏に。で、一科目でもダメやったらまた一から(受験し直し)ですからね。
きき手)一発勝負の?
宏美さん)はい、実力、体力、運もないと…。とてもじゃないけど、というのが本音だったんですけどね。正直、神戸大学も通るとも思ってなかった。公認会計士は2回目でしたが、通っちゃったもんですからね。

一発勝負の公認会計士の試験に通っちゃって

きき手)公認会計士の合格の発表の日は、どんな様子だったですか?
宏美さん)当時は財務局の掲示板に見に行くわけです。いつ発表するのか承知ですから、諦めとったら電話かかってきて、「通ったよ」と。「就職も決まったよ」という。ええっ!ていう。
きき手)就職はどういうふうに?
宏美さん)就職はOという監査法人で。発表のとこにいわゆる人が来てまして、肩たたかれてという。
きき手)ヘッドハンティング?
宏美さん)昔はね。人手不足のころはそうだったんですよ。アルバムにその辞令みたいなんがありますけど、要は講習をせなあかんもんですから早く戦力化するために。だから学生でありながらお給料頂いてた。大阪の事務所に席もつくってもらって名刺もありまして、実務研修ということで、出た日だけ給料プラス日当みたいな…。


(写真:実家には遺影とともに卒業書証書と公認会計士合格証書が。2月12日付の中日新聞は、「(学生が死亡した場合は除籍になるのが通例だが)神戸大は試験を受けていれば卒業できた可能性がある学生には学位記を与えることにした」と報じている)

残りの単位とらなあかん、卒論やらなあかんということに

宏美さん)実は、公認会計士に通るまでは大学で留年してもいいという話をして、夏から単位取るのをやめてたんです。
きき手)取ってしまうと卒業させられますからね。
宏美さん)それがもう親の妥協でして。その代わり2年であかんかったらちゃんと就職してくれと。わかったということでやったんですが、たまたま(公認会計士に)通っちゃったんですよ。それで急に忙しくなりまして、残りの単位取らなあかん、卒論をやらなあかんということになっちゃったんです。
きき手)長期計画のつもりが?
宏美さん)これが運といいますか、逆に(運が)つきすぎるとよくないという。トータルの世界ですもんね。

公認会計士試験なんて通らなかったら…

美佐子さん)公認会計士に通ったためといったらおかしいんですけど、そのために自分のすることがたくさんできてきた。だから正月も早めに神戸に帰っていった。
宏美さん)ほんとに日中なら、(アパートに)いなかった。
きき手)少し時間や場所がずれていたら、と思いますね。
宏美さん)お寺さんに言われたんですけど、もって生まれた寿命があるんですと。

宏美さん)やっぱり生きていてほしいという、なんでもいいから。だから変な言い方ですが、立派にならんでもいいから、普通の生き方でね。だから正直言って公認会計士試験なんて通らなかったらよかったのにな、というのはどっかにありますよね。美佐子もいいましたように、試験通ってなければ生活変わっとった。たやっぱり死なれてしまいますと、どうにもならないですね。
美佐子さん)私も年が70を超えたことだし、二人だけになってくると誰に頼っていいのかわからなくなりますもんね。娘はね、今、大阪におりますけど帰ってくることはできませんしね。やっぱり息子は息子ですね。

最後に帰省した正月 珍しく駅で見送ってくれた

きき手)最後にあったのはいつですか?
宏美さん)いつも年末2、3日おるんですけど、12月31日の昼頃帰ってきて元日の昼頃(神戸に)帰っていったんですよ。津駅まで(車で)送ったという。それでお昼食べて帰ったんかな。
きき手)何をおっしゃって神戸に帰って行かれたんですか?
宏美さん)おかしな話なんですけど、いつもは津駅で降りてさっと行っちゃうんですけど、珍しく(ロータリーを出て行く)私を見送っとった。
きき手)普通だとすぐ改札に行ってしまうのに?
宏美さん)それから公認会計士の仕事で、監査六法とか分厚い本があるんですよね仕事上。でアタッシェケースのようなカバンを買ったんですけど、(分厚い)六法が入らないと。で、私にくれたんですよ。はじめてプレゼントをもらったというか。
きき手)カバンに本が入らないと。
宏美さん)あとでこんなことがあると、この二つがあれ?という感じで…。

公認会計士予備校の仲間との絆

きき手)信宏さんは中学とか高校の時は部活に入られてましたか?
美佐子さん)部活は卓球やったかな
宏美さん)将棋とかちごうとったっけ、運動はしてなかったやろ
美佐子さん)運動はしてなかったです。
きき手)大学ではサークル・部活とかには所属されていたんですか?
宏美さん)ほとんど勉強、勉強で、サークルは…
美佐子さん)入ってなかったかな。
宏美さん)入ってなかったんじゃないかな。
美佐子さん)TAC(タック=公認会計士受験の予備校)の人らとあちこち行ってたみたいですが。

アルバムには、神戸大の同級生と出かけたスキーの写真と、その仲間からの手紙がある。一年生のころは六甲山、二年生の時は木島平、3年生の時には戸狩へ。毎年違うところにスキーに行ったという。吹田市のMさんは1月25日付の手紙に、「今年は卒業旅行に行こうと思っておりました。みんなから頼りにされるまとめ役でした。私はいつまでも彼のことを忘れたくないと思っております」と書いている。

きき手)1995年の1月末に信宏さんのご友人から段ボール箱が送られてきたそうですね。
宏美さん)あ、TACのお友だちです。ワープロを貸していただいた方とか、その方たちが掘り起こしをしていただいたようでして、それで出てきたものを…。衣類や勉強のものなどたしか4箱、5箱ぐらい頂いた。
きき手)その中に腕時計も?
宏美さん)ああこれですかね。おそらく高校の入学祝やと思いますね。ですからもう30年ぐらいなるんですか。時計屋さん曰く「ずいぶん古いですね」と。
電池交換したら一応動いてますね。
きき手)これも、倒壊した下宿から取り出されたものなんですね。


(写真:下宿から掘り出されて遺品の中にあった腕時計。)

きき手)後ろに飾られてる写真はいつ撮られたものなんですか?
美佐子さん)TACで遊びに行った時のやつやね。
宏美さん)キャンプとかいろいろやっていただいてまして。
きき手)親御さんの知らない交友関係が、大学生だからいっぱいありますね。
宏美さん)そうですよね。突然だったもんで義理、不義理ふくめて全く分かんないもので。ほんとに葬儀の挨拶の時も申し上げたんやけど、お世話になりっぱなしでしたね。返しようもない。要は、何もわかりませんもんで。

下宿から取り出されたワープロ フロッピーに残っていた卒論

宏美さん)遺品の中に卒論が出てきた。もう完成してたみたいですけどね。あとで提出したら完成稿やったみたいです。
きき手)1月17日は、卒論の締め切り間際ですよね。
宏美さん)そうなんですかね。ワープロも友達のをお借りして、そのワープロの中にフロッピーがありましてそれ復元して私が出したんですが。ゼミの先生によると、どうもその完成したばかりなのではないかと。
きき手)卒論のワープロをお友達に借りていた。それが下宿にあったんですか?
宏美さん)そうです。掘り起こしてもらって。
きき手)森ゼミですね。
宏美さん)森ゼミの助教の内藤先生です。
きき手)内藤先生はどうおっしゃってました?
宏美さん)内藤先生はここに業証書を持ってきてくださったんですが、それでゼミで今では珍しいまじめな学生さんという、よく勉強して珍しいという。

(写真下:インタビューはオンラインで行われた。)

メディアの取材は貴重な記録になった

きき手)新聞とかメディア取材を受けることについては、どういった思いがありますか?
宏美さん)死んだ当時は現場の写真1枚も撮ってないんですよ。葬儀の写真は姉が知らんうちにとってて後でくれた。初めの何年かは見たくないということだったんですが、いつごろからかわかりませんが、自分の記憶、そういう子がおったんやということを、自分らもわからなくなる。それがちょっと寂しすぎるなということがありまして…。

1995年2月12日付の中日新聞朝刊の記事には、「公認会計士合格 “春”間近の悲劇」、「卒論残し 彼は逝った」、「震災死の神戸大生に卒業認定」、「倒壊下宿のフロッピー 友人ら探し出す」と見出しがつけられている。そして崩れた御影石町のアパートの写真が掲載されている。

宏美さん)一番最初に、(中日新聞から)取材といわれてお断りした。すると、自分のほうで周辺取材するので、掲載だけ認めてほしいという話でですね。それが結果的に貴重な記録になったというところから始まりました。
きき手)記事に記録が残るということですもんね。
宏美さん)私も、当時から記録は残していて…。
きき手)死亡届もファイルしてるわけですね。
宏美さん)これが死亡届になりますかね。でこれが遺体検案書です。あ、窒息死、胸部圧迫ですね。胸腹部圧迫。


(写真:宏美さんのファイルには死体検案書も綴じられている。「窒息死」「胸腹部圧迫」とゴム印が押されている。「兵庫県南部地震の為、倒壊した家屋の下敷きになったという」という部分はパソコンでプリントされている。<一部画像を加工しています>)

慰霊碑、この場所があるから

きき手)若い世代の神大生になにかメッセージをいただけますか。
宏美さん)学生生活を幅広く楽しんで下さいということなんじゃないですかね。それから親御さんと話す機会を、雑談でもなんでも、作っていくということじゃないですか。
美佐子さん)親としゃべることが大事だと思いますけどね。お正月うちに帰った時はあれしたこれしたということをしゃべったりね。

きき手)阪神・淡路大震災で39人の神戸大が亡くなったということを知らない、伝わってない学生も多いのです。
美佐子さん)うちの息子はこういうことで亡くなったのよいうたら、えっ!そうやったんか!とびっくりされる人も多いですね。
きき手)そういうことがあったということは、やはり知っていてほしいですか。
美佐子さん)知っていてほしいですね。
宏美さん)(同じ経営学部の遺族の)戸梶さんとかといつも言うんですけど、神戸大学の慰霊碑で献花式をやってくれて、東遊園地で慰霊のモニュメントがあって、だから行く場所ができてるんですよね。やっていただいてる方は大変やと思いますけど。下宿跡はよその土地であって、もの供えるということも遠慮するということで。やっぱりああいうのがあるというのはありがたい。一つの目的、目標になってるんですね。だからお正月は1月17日が過ぎてはじめて年が変わるみたいな感覚です。

(写真下:震災25年、慰霊碑を訪れ、プレートの信宏さんの名前を手でなでる父・宏美さんと、手を合わせる母・美佐子さん。2020年1月17日撮影)

(2020年12月6日インタビュー)現役学生はオンラインでインタビューを行いました。現場での写真取材は外部に委託しました。

<2021年1月11日 アップロード>

【連載】慰霊碑の向こうに…震災の日、学生たちの命は<リンク集>
    https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d120245265afb7ff5322fd1fd5f48ebd

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