太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月5日の神戸空襲。B29、350機が神戸の街を襲い、神戸経済大の予科仮校舎、思誠寮、国維寮と並んで、「弓道場が被災して全焼」という記録が神戸大学に残っている。この弓道場はどこにあったのか。この夏、大学に寄贈された1冊のアルバムの写真から、その場所がほぼ特定された。山すその六甲台キャンパスで、なぜこの弓道場だけが狙われたのかは、まだ謎に包まれたままだ。<成瀬 泉>

今年の8月、ニュースネット委員会は連載企画「【終戦80年】空襲下 キャンパスで失われた命」をサイトに掲載した。戦時中、神戸大の前身校のキャンパスや寮も戦火にあい、命を落とした学生がいたことを、神戸大学大学文書史料室の資料をもとに伝えた5本の記事だ。
▼連載【終戦80年】空襲下 キャンパスで失われた命 <リンク>
<1> 小型爆弾投下 旧国維寮で学生が死亡
<2> 深江校地は36発被弾 遺体は浜で茶毘に附された
<3> 猛火を逃げ惑う寮生、登校中に命落とした仲間
<4> 洋上の練習船にロケット弾 6人が爆死
<5> 終戦間際にも焼夷弾攻撃、焼け落ちた煉瓦造り
1945年2月8日に、小型爆弾が神戸経済大の国維寮(現在の中央区上筒井通にあった)に投下され、学生1名が亡くなったのが最初の犠牲者だった。
●市街地の校舎は次々に空襲にさらされた
3月17日未明には兵庫県立医学専門学校の校舎と同附属医院(現在の医学部キャンパスと同じ場所にあった)の一部が空襲で焼け、看護師1人が亡くなっている。
5月11日朝には、高等商船学校神戸分校校地(現在の深江キャンパス)に爆弾が投下され、職員2人、生徒2人が死亡。
6月5日朝には、神戸経済大予科の御影校舎と思誠寮(現在の東灘区内)が全焼、寮職員2人、学生1人が死亡。兵庫師範学校男子部の御影校舎、寮(同)が全焼し、生徒に死傷者がでた。
7月24日昼には、播磨灘で航海実習中の練習船「進徳丸」が米艦載機5機による攻撃を受け、神戸高等商船学校機関科生徒2人を含む計6人が爆死している。
●「全焼した神戸経済大の弓道場」はどこにあったのか
『神戸大学 凌霜七十年史』(1976年6月5日発行 財界評論新社)によると、「6月5日にはB29、350機が神戸を空襲し、(神戸経済大の)予科仮校舎、思誠寮、国維寮、弓道場が被災して全焼し、予科学生1名と職員2名が犠牲となった」という記述がある。
今回の連載を取材・執筆し始めた当初、この「弓道場」はどこにあったのかが不明だった。中央区上筒井通の神戸高等商業時代の校地に残っていた国維寮の周辺なのか? すでに昭和10年に校舎などは六甲台に移転していたので、現在の六甲台の施設だったのか? 後者だとすれば、どこにあったのか。
●終戦80年 この夏、謎は解けた
この8月、大学文書史料室に東京都内在住の昭和13年(1938年)神戸商業大7回生の学生の遺族から、卒業アルバムの寄贈があり、そのなかの写真に謎を解く鍵があった。
これは、これまで同室がこれまで所蔵していた簡易版(22ページ)と違い、88ページある完全版で、キャンパス内の施設や風景スナップが数多く掲載されている。
弓道場の写真=写真A=はこれまでも、大学文書史料室によって確認されていたという。ただ、単体で写っているため、これがどの校地のどの場所にあったかはこれまで判明していなかった。

(写真:この夏、大学に寄贈された昭和13年の卒業アルバムの「完全版」)
●現在と同じ場所に神戸経済大の弓道場はあった
ところが、今回寄贈されたアルバムには、武道場と弓道場が並んで映り込んだ写真=写真C=が掲載されていたため、弓道場は武道場のすぐ東側にあったことがわかった。
武道場=写真B=は、現在も六甲台グラウンド北端に残る艱貞堂(かんていどう)だ。その東側、つまり現在と同じ場所に神戸経済大の弓道場があったことになる。少なくとも、昭和13年には、「弓道場」は六甲台に移転してきていたことが今回わかった。

(写真A:昭和13年の卒業アルバムにあった「弓道場」の写真)

(写真B:「武道場(現在も残る艱貞堂)」の写真。その造りから現在も残る艱貞堂であることがわかる)

(写真C:「グラウンド」というタイトルのついた写真。現在の六甲台グラウンドと思われる。左端に「武道場」が見える。その右=東側=に写真Aの弓道場があることがわかる いずれも昭和13年の卒業アルバムから)
『神戸大学凌霜七十年年史』の「弓道場が被災して全焼」という記述の「弓道場」が、このアルバム写真に写る弓道場を指すのなら、六甲台キャンパスにも、空襲の被害があったことになる。

(画像:現在の弓道場 六甲台グラウンドの北端、武道場「艱貞堂」の東にある 昭和13年の配置と同じだ)
●なぜ六甲台北端の弓道場だけが狙われたのか?
残念ながら、大学に残る資料に「“六甲台の”弓道場が空襲で全焼した」という記述や写真はまだ見つかっていないので、確定はできないが、六甲台キャンパスにも空襲の被害が及んだことが濃厚になってきた。
大学文書史料室の野邑理栄子・室長補佐や、湖内夏夫・事務補佐員は、「それにしても、どうして弓道場だけが狙われたのだろうか」と疑問は残るという。目立つ本館や講堂、兼松記念館(経済経営研究所)などが空襲を受けたという記録はないからだ。

(写真:大学文書史料室の野邑理栄子・室長補佐=右=と、湖内夏夫・事務補佐員)
六甲台グラウンドより北側の土地は、昭和40年代に開発されるまでは鶴甲山で、昭和13年のアルバムの写真を見ても雑木林が背後に迫っていることがわかる。キャンパスの北端の山の際の弓道場がなぜ空襲にあったのだろうか。
西隣の武道場、つまり現在も残る登録有形文化財(2012年登録)の艱貞堂は、ぎりぎりのところで類焼を免れたことになる。

(写真:現在の弓道場 2025年8月撮影)
現在の弓道場を訪ねると、静かなたたずまいの中で、弓を引く部員の姿があった。
80年前、この同じ場所が空襲を受けたときはどのような状況だったのだろうか。
部員に尋ねたが、OBから戦災の話は伝わっていないという。
(写真下:現在の弓道場内部 2025年8月撮影)

▼関連サイト=神戸大学サイト「武道場の修復終わり艱貞堂開館式」(2012年11月05日)https://www.kobe-u.ac.jp/archive/news/2012/20121105_2.html
▼関連サイト=文化庁文化遺産オンライン「神戸大学武道場(旧神戸商業大学道場)」https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/269376
▼関連記事=【終戦80年】神戸大の食資源教育研究センターに残る戦争遺構
前編 (2025年8月15日)
後編 (2025年8月15日)
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了
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