中内功氏が死去 戦後の流通の革命児

 流通科学大学は9月19日、スーパー「ダイエー」創業者で経団連副会長をつとめた、中内功(なかうち・いさお)氏が同日午前9時30分に脳梗塞(こうそく)のため病院で死去したと発表した。83歳。大阪市出身。流通の革命児も、最期は経営の一線から身を引き、流通科学大でゼミを担当するなどしていた。【9月19日 神戸大NEWS NET=UNN】

戦後、旧制神戸経済大第二学部を卒業

 中内氏は、1941(昭和16)年兵庫県立神戸高等商業学校(後の県立神戸商科大、現在の兵庫県立大)を卒業後、応召。太平洋戦争の激戦地フィリピンから生還した。1950(昭和25)年に旧制神戸経済大第二学部(神戸大経済・経営・法学部の前身の夜間課程)を卒業。
 
 1957(昭和32)年、ダイエーの前身である大栄薬品工業を設立し、大阪市旭区千林町に「主婦の店ダイエー」1号店を開業。米国のスーパーマーケットの仕組みを取り入れ、日本の流通システムの近代化を推進した。翌年には三宮店を開店し、全国に店舗網を広げた。1972(昭和47)年には三越を抜き、売上高で小売業トップに。1980(昭和55)年に業界初の年商一兆円を達成した。

小売業の王者 多角経営が裏目に

 コンビニの「ローソン」や百貨店「プランタン」などの経営にも進出。1988(昭和63)年にプロ野球南海ホークス(当時)、1992(平成4)年にリクルートを相次いで傘下に収めた。しかしバブル経済崩壊と阪神大震災、大店立地法の緩和による競争激化に直面。経営が一挙に悪化した。
 1999(平成11)年にダイエー社長、2000(平成12)年には会長を退任。2001(平成13)年に責任を問われる形で取締役も辞任し、経営の一線から退いた。2004(平成16)年12月、ダイエーが産業再生機構の支援を受けることになり、自身が保有していたダイエー株を処分し、名誉職のファウンダー(創業者)も辞し、ダイエーとの関係が完全に切れた。

価格形成力をメーカーの手から消費者へ

 「メーカーの価格形成に抗して、消費者が価格を決めるべきだ」という経営哲学で知られ、1967(昭和42)年、家電メーカー最大手の松下電器産業と対立し、1994(平成6)年3月、正式取引が再開するまでは「30年戦争」と呼ばれた。
 1995(平成6)年1月17日の阪神大震災の発災時には、流通はライフラインだという思想で被災地の店舗の早期再開の陣頭指揮をとった。
 1988年には私財を投じて、流通科学大(神戸市西区)を設立し、学校法人中内学園の学園長に就いていた。
 流通の革命児も、最期は経営の一線から身を引き、大学ではゼミを担当するなどしていた。9月14日に「倒れる」の報道が流れたあと、公式の発表は同大学を通じて行われた。
 8月26日午後倒れ、神戸市内の病院に入院。集中治療室(ICU)で治療を受けていた。

病院の待ち合い室で倒れる

 神戸新聞が伝えたところによると、ダイエー創業者の中内功氏が亡くなった9月19日、同氏が学園長を務める流通科学大(神戸市西区)では広報担当者らが訃報の確認などに追われた。
 流科大では同日午後、大学内で記者会見を開いた。高橋信夫事務局長によると、中内氏は8月26日に同大を訪れた後、神戸市内の病院の待ち合い室で倒れたと発表した。病院には定期検診のため来院していた。同大では学園葬を行う方向で検討している。葬儀は親族のみで行う。【9月20日 UNN】

《おことわり》中内功氏の「功」の字の「力」は「刀」ですが、インターネットを通じて文字が送信できないため「功」と表記します。(編集部)

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