【慰霊碑の向こうに】14 故・上野志乃さん(当時発達科学部2年)=父・政志さんの証言=<後編>


(写真:ファンだった大江千里さんのコンサート会場で。1994年3月 )

 上野志乃さん(当時20歳、兵庫県立龍野高校卒、人間行動表現学科/マンドリンクラブ)は、JR神戸線六甲道駅の西約300mの神戸市灘区琵琶町3丁目のニュー六甲ビラ1階の101号室に下宿していた。
 震災前日の夕方から、志乃さんの部屋のこたつでは、同じ学科の3人が課題を徹夜で仕上げていた。午前5時ごろに課題が完成すると、1人は近くのマンションに帰り、志乃さんと川村陽子さんがこたつで眠りについた。45分後の午前5時46分、志乃さんのアパートを激震が襲った。
父・政志さんによって崩れたアパートから出された志乃さんは、1月19日深夜に、兵庫県佐用郡南光町(現・佐用町)の実家に帰った。葬儀は1月22日に自宅で営まれた。弔辞を読んだのは、一足先に帰って助かった友人だった。

生き残った友人が弔辞を読んでくれた

『しのちゃんへ』

「じゃあ、またあとでね、おやすみなさい。」
1月17日の明け方、しのちゃんの下宿をあとにした数十分後、あんな悪夢のような出来事が起きるなんて、誰が予測できたでしょう。
あのとき交わした「おやすみなさい」のことばが、しのちゃんとの永遠のお別れのことばになってしまったなんて信じたくもありません。

 大学の学部・学科・コースも同じ、部活も同じ、下宿もとっても近くだったしのちゃんには、何から何まで本当にお世話になりっぱなしだったね。心優しく、本当に懐の深いしのちゃんに、私もどれだけ助けられたことか。ついつい話がはずんで徹夜して語り合ったこともあったね。一緒に夜ごはんを食べたり、買い物したりしたね。コンサートにも何度か足を運んだね。
 昨年の「六甲祭」では、みんなでカレーを作ったね。
 持ち前の明るさと独特な個性をもつ志乃ちゃんとともにすごした時間全てが私にとってのかけがえのない宝です。しかし、これからしのちゃんとそんな楽しい時間が過ごせないのが信じられません。
 こんなに突然に、そしてこんなにはやく、しのちゃんとお別れしなければならないのは残念で仕方ないけれど、しのちゃんのことだから、きっと新しい世界で、楽しい時間を過ごすことでしょうネ。
 いつまでも、どこにいても、明るく優しいしのちゃんのままでいて下さい。
 そしていつまでもしのちゃんは私達みんなの大切な親友です。
 本当にありがとう。安らかに眠ってください。

村並麻紀子

聞きて)とても仲のいいお友達だったんですね。
上野さん)そうですね。(志乃は)積極的な子じゃないんですよね。おとなしい子でね。おとなしいんやけど、人が寄ってくるんです。
聞きて)神戸も大学も大変な中、村並さんはよく葬儀に来てくださいましたね。
上野さん)九州の実家へ、いったん帰っていたそうです。
聞きて)じゃあわざわざこちらに戻ってきて?
上野さん)はい。そうですね。お礼も対応もなかなかできなかったですけどね。

第1志望だった神戸大発達科学部の美術コース

聞きて)志乃さんはどうして神戸大学を志望されたんでしょうか。
上野さん)それはね、ちゃんと(理由が)あるんです。先生にはなりたくないと言って…。
聞きて)ああそうなんですか。
上野さん)私の(教師としての)姿を見てね。(笑)
聞きて)どうしてですか?
上野さん)いや、夜遅くまで(仕事)したりというのもあるし、もう1つは、人に教えるっていう、そういう作業というのはね、性格的にも好きじゃないというのがあって。だから、自分でこつこつとやりたいという思いがあったんでしょうね。ちょうど、教育学部がなくなったんですよ、神戸大学は。
聞きて)学部の名前が変わりましたね。
上野さん)発達科学部というのは、教員免許を取らなくても卒業できるという、ことを知っていたから、それで神戸大を目指したんです。
聞きて)発達科学部を選んだのはなぜですか。
上野さん)それは美術があったから、
聞きて)美術が学べる大学という?
上野さん)高校3年生の時に、私も妻も、文学部でも行くんだろうかなっていう話をしよったんです。本が好きで、とにかく本はよう読んでましたからね。それで、高校3年生の時に美術の方へ行きたいと言いだして、受けたわけですね。


(写真:追悼手記『忘れないで 志乃』より。右は大学1年のときの油絵。)

家賃が安くて広かったのがアパート選びの決め手になった

聞きて)志乃さんが下宿していたのは、灘区の「ニュー六甲ビラ」というアパートでしたね。
上野さん)連れ(妻)と娘が一緒に捜し回ってね。家賃は3万2000円でした。当時、マンションなんかは、5万5000円とか、そのぐらいしよったでしょうね、ある程度安いところということで。6畳でも昔の「本間」っていうね、「京間」より広い6畳だったんで、決めたんでしょうね。あと台所と玄関があって、ちょっとスペースが広かったんです。それが2階だったら…、とかいうのを思うことはありましたけどね。
聞きて)アパートに行かれたことはありますか?
上野さん)はい。1年に1回ですかね。最初の引っ越しの時に行って、2年生になった時に1回行ったぐらい、2回ですかね。


(写真:灘区琵琶町の「ニュー六甲ビラ」。被災前の姿。1993年ごろ撮影)

アルバイトは六甲道の居酒屋と、六甲山上のレストラン

上野さん)アルバイトしよってね。JR六甲道駅の、すぐ地下にというか。線路の下にある店で福田屋という、居酒屋のようなところ。ウエイトレスか?って聞いたら、いや「皿洗い」やちゅうてました。出たくないわけですね(人前に)。表で接客したくないという。前へ出たくないという。
聞きて)控えめでいらしたんですね。
上野さん)そうそうそう。それと、土・日だったか。「六甲プラネット」いうてね。六甲山の頂上に、パラボラアンテナがあるじゃないですか。あの、近くに、レストランがあったんです。そこへも行ってました。
聞きて)そこでは?
上野さん)そこはお客が少ないから、(接客を)しとったんじゃないですかね。(笑)そこはね、震災前の1月3日にアルバイトに行ってるんですよ。
聞きて)「六甲プラネット」へ?
上野さん)はい。おそらく、ケーブルで上がっていったんでしょうね。ちょうど雪が降っとってね。きょうは何にも仕事せんと帰ってきたというてましたね。

聞きて)震災直前のお正月は実家に帰っていたのでは?
上野さん)お正月は帰ってくるんですけどね。仕事やからといってまた行ったんです。
聞きて)その3日のバイトに間に合うようにまた神戸に戻られたんですね。
上野さん)そうですね。

帰省時は、ナダシンのおはぎをお土産に

聞きて)年末は何日から何日までこちらの実家にいたんですか。
上野さん)30日ぐらいには帰ってきとったと思いますけどね。月に1回は帰ってきてたんです、自分で日を選んで。必ず、そのニュー六甲ビラの下の、2号線の近くに、「ナダシン」という和菓子屋さんがあって、本店がそこにあるんです。売り切れたら終わりになるというような、かなり、安くておいしいっていうね…。
聞きて)ぼた餅で有名ですね
上野さん)おはぎがおいしいですね。60円だったかなあ。今80円ぐらいになっとうかも分からんけど、当時は60円だったんです、ずっと。で、それはいつも10個ぐらいお土産に持って帰ってきてました。
聞きて)お父さんが好きだからですか?
上野さん)そうそうそう、私も神戸へ行ったら必ずそこへ寄って買って帰ったんです。
聞きて)お父さん思いですね。
上野さん)そうね。私にはね、誕生日でもね、似顔絵のクッキーを作って焼いてくれたりするから。食べるのがもったいないからね。結局、カビさせてしもうたりしとったことがあったりね。そんなこともありましたね。


(写真:自身が編集した追悼手記『忘れないで 志乃』を手にする政志さん。右はその表紙。)

マンドリンクラブで低音のマンドラ担当だった

聞きて)志乃さんは、どんな学生生活を送っていたんですか。
上野さん)そうね。本当は吹奏楽部に入りたかったいうてたけどね。何か、都合がつかなくて、それで誘われたいうのもあったんか、マンドリンクラブに入ってしてました。
震災前の2年生の12月に、1回やめたいということがあってね。3人、4人、仲の良い友達がおったんで、その人らに説得されて。で、まあ続けようかという、話になってたんやけどね。そのころは、悩んでたですね。
うん、まあだけど、相対的には知的レベルの高い人たちの中でね、楽しく、過ごせているということは言っていましたけどね。
聞きて)マンドリンクラブの中ではどんなパートだったんですか。
上野さん)ドラといってね。マンドリンの低音を引く。
聞きて)マンドラ?
上野さん)はいそうです。低音でしたね。村並さんは、コントラバスか何かしていましたね。4人ぐらいがいつも仲がよかったらしいです。

高校時代 はじめてねだって買ってもらったクラリネット

聞きて)龍野高校では吹奏楽をやっていたそうですね。
上野さん)クラリネットです。最初は学校のクラリネットを使ってたんやけど、これ以上ええ音を出せんからといってね。初めて、ねだったことがあったんです。高校の時に、自分のクラリネットが欲しいと言って。今まで、塾も行ってないしね、そんなお金を使うようなことはなかった。30万円のクラリネット、30万だった。
聞きて)あんまりものをねだるお嬢さんではなかったのに?
上野さん)全然。そんなに金を使うてない。クラリネットは下の娘が持っていったかな、鹿児島へね。マンドリンは村並さんにあげました。記念に持っといてくださいって。

上野さん)みんなと仲良くできていたんでね。(アパートには)他の人も、来て泊まったりしてたらしくて。
聞きて)よくお友達が泊まりに来る部屋だったんですね。
上野さん)そうですね。広いからというのがあったらしいですけどね。自分から行くことはないけれど(笑)来る方はあったらしいです。
聞きて)控えめだけど、好かれて、みんなが集まってくる人ですね。
上野さん)そうそうそう、そういうなんか力があるみたいね。高校の時代からそれはあったみたいです。

成人式で帰省 最後に会ったのは震災前日の16日夕方

聞きて)生前に最後に志乃さんに会われたのは、いつでしたか?
上野さん)それは、(震災前日の)1月16日の夕方だったですね。
聞きて)成人式のために帰ってきてたんですね。
上野さん)帰って来たのは、成人式前日の14日かな。で、トランプしたりしてね。

聞きて)震災の直後に、探す時もずっと一緒にいらした奥様は、志乃さんが被災されたことについて、どういうふうにおっしゃっていましたか。
上野さん)しゃべれなかったですね。沈み込んで泣いてた。1年間は外へ出なかったですからね。
夜中には、叫んでましたしね。「なんで早う死んだんや」とか、「早く帰ってこい」とかね。よく言ってましたね。


(写真:成人式の後、友人宅で撮影したスナップ写真。震災2日前。最後の写真。1995年1月15日)

「なんで早う死んだんや」 夜中に叫ぶ妻

上野さん)アルフォンス・ディーケンさん(編集部注:上智大名誉教授/哲学者、死生学)とかがね、そういう喪失の体験に12段階あると言っているのをあとで勉強しましたけど。こうなるのが普通なんやなと、安心したことがありますけどね。
じゃあ夫婦が、うまくいくかといったら逆なんですね。お互いにそういう話をしたくなくなる。
お互いに、励まし合って仲よくして行こうなっていうことは、当たらない部分も、あるんですね。普通だったらそうやと思うんやけど、考えられないことが、現実にはあると…。
だから、まああの、私が、親友やと思う人を失ったのもひとつです。例えばね、その人から、「頑張ってね」というような言葉をね、パッと吐かれた時に、「ああもうこの人には分かってもらえてないな」と、いう思いがあるんですよね。
なんでかいうたら、生きとうだけで頑張っとるんですね、必死で。それ以上頑張ってねって、言うかっていうね。


(写真:実家の部屋で。)

月命日には神戸の現場に

聞きて)奥様と、志乃さんの話とかは?
上野さん)しなかったですねあんまりね。
月1回は、神戸の現場へ行ったりとかね。してましたけれど。
逆に、上司から、「ええ加減にせえよ」というような言葉がかけられたりしてね。
聞きて)17日っていうのは月命日ですからね。
上野さん)そうそう。日曜日だったらいいんですけれども、平日もあるじゃないですか。年休取って休むということを何回かやってるとね、教育委員会から、ええ加減にせえという…。管理職ということで。まあ、分かってもらえないなと思って、その近くの日曜日にね、行ったりするようになりましたけどね。

上野さん)9日目に、出たんですよ学校へ。喪に服する休みが10日はあるんです。
聞きて)忌引ですね。
上野さん)私は9日で出た(出勤した)んですけれどもね。職員室では、成人式の話をしたりね。晴れ着がどうのこうのと言ったり、しているのを聞いて、居たたまれなくなったというかね。
聞きて)同僚はお子さんのお話をしているんですね。
上野さん)そういうことは平気で言えるんやなっていう、その感覚が理解できひんかったのもありますね。

瓦礫の中から取り出した遺品

聞きて)志乃さんの住んでいたニュー六甲ビラは、更地になったのはしばらく後ですか?
上野さん)3月17日に建物撤去でした。もう遺品は、ほとんど取り出しとったんですけれどもね。もうほとんどいろんなものを持って帰ってきました。
聞きて)下宿跡から持ち帰られた中で、大事に思われているのはどんなものがありますか?
上野さん)そうですね。
誕生日にあげた小物入れとか。時計も、5時46分さしたやつがあった。
聞きて)腕時計ですか?
上野さん)いや、目覚まし時計です。朝起きるのがね。いつも起きへんのですわ。いつも、目覚まし時計2つかけてね、しとって。1つは、針ごと飛んでたけど、1つは、5時46分を指したままのがあったので…。


(写真:5時46分を指したままのめざまし時計。倒壊したアパートから取り出された。)

アパート跡地に3人の名を記した「箱」を置いた

聞きて)上野さんは、志乃さんの住んでいたニュー六甲ビラの跡地にずっと思いを持っていらっしゃいますね。
上野さん)はい、みんなは「ほこら(祠)」っていうんですけれども、ほこらっていうとちょっと違うんですけど、まあ「箱」でいいんですけど。
お友達とかね、みんな来てくれよったから、現場にね。で、印になる物を置いておこうと思って、置いたんです、(木の)箱を。
木の人形みたいなのがあって3体こう立てて、名前は後ろに書いてね。
で、箱に入れて置いたんですね。
聞きて)その3体というのは?
上野さん)それは呉さんという中国の留学生と、川村さんとうちの娘と。ニュー六甲ビラでは3人亡くなったからですね。
聞きて)いつも電話を受けてくれていた呉さんも亡くなられたんですね。
上野さん)3人とも1階です。呉さんは電話に一番近い部屋だったからね。
102号室の人は腰を骨折してるけど助かった。
聞きて)それも学生さんですか?
上野さん)いや、学生じゃなかったと思いますけどね。
1回お会いしたことあって。瓦礫をね、掘りながら探しよったんですけれども、その途中に来られて。「あなたは私のところで何しよってんですか」って怒られてね。
いや私の娘が亡くなったら遺品探しおるんや、と言うたらもう、何も言われんと、帰っていかれたですけどね。
ここは2度と来たくないというてましたね。
まあ、生きとった人はみんなそう言ってますね。2階の人も、そう言うとって。岡山におられる人だったようですね。


(写真:灘区琵琶町のニュー六甲ビラ跡地に置かれた「箱」。1996年3月25日撮影)

古くなった「箱」を新しい「箱」に

聞きて)どれぐらいの頻度で、アパート跡には通われたのですか。
上野さん)3月17日までは、ほぼ時間があったら行きよったんですよ、毎日。何でっていったら、遺品探しにです。(瓦礫の下に)潜ってでも、見つけようと思ってね。そのまま、撤去されると辛いなと思ってね。
それは私だけで行く場合も、下の娘と行くこともありましたね。
箱を置いてからは、月に1回は、月命日やいうことで行ってましたね。

聞きて)どういう場所に置かれたんですか。
上野さん)敷地の範囲に置かしてもらったんです。
聞きて)長らくそこへ通われたそうですね。
上野さん)そうですね。
それから5年ぐらいは、はじめに置いた箱でしたけど。雨が入ったりとか、朽ちてきよったいうことで、もうちょっとしっかりした箱を作って置いたんです。5年ぐらい、もうちょっと先だったかもしれない8年ぐらいだったかもしれん。そこへは、私が作って焼いた、お地蔵さんのようなやつを3体置いてね。
聞きて)新しく?
上野さん)そうそう、それから娘の、写真を入れたんです。陶器で焼いて。
聞きて)陶板の?
上野さん)はい。
それからまた5、6年したかな。その時に、整地するということで。そこの家主さんが、今まで、随分助けてくれとったんですけれど、その箱を置いとうだけでも、隣の人なんかは撤去せいとか言ってね。
聞きて)隣の敷地の方が?
上野さん)ええ、目障りやいうて。気になって、(震災のことを)思い出すからあかん、ていうようなことで。「環境局に言って撤去してもらうで」とかね。
貼り紙もしてあったんですよ。
聞きて)貼り紙とは?
上野さん)「いつまでも、置いとかんとのけてくれ」と。
こんなこと書いて貼られたんですって家主さんに言ったら、誰が言うとんや、「わしが言うたげよう」って言って、味方になってくれたんです。


(写真: 2001年5月19日に撮影された2代目の「箱」。焼き物の三地蔵と3人を紹介した新聞記事が見える。2011年1月30日までアパート跡地に置かれていた)

「箱」から3人の名を刻んだ御影石に

聞きて)新しく箱が、できて、その後はどうなったんですか。
上野さん)そのあとずっと、置いとったんですけれどもね。
その方が、家主さんが「もうわしはこれ以上元気でおられんから。施設に入る」と言って。(今後も置き続けることを)保証できへんから、もう(箱を)のけてくれんかとか言って。
まあしゃあないな、ということだったんですけれどもね。
それで、石を1つ置かせてもらえます?とか言って、置かしてもらったんですね。

聞きて)どんな石ですか?
上野さん)それは、3人の名前を刻んだ御影石で、龍野高校の近くの、川の橋の下でとってきた、このぐらいの平べっちゃい、丸みのある石で、それを、半分に切ってもらって、名前を刻んでもらって、そこへ陶板もはめ込んでおったんです…。
上野さん)そういう形で置いとったんですけど、業者がね、家を建てる時に、ユンボでのけたんでしょうね。どこに行ったか今、分からない。
聞きて)震災何年後のことですか。
上野さん)15,6年かなあ。してからね。
聞きて)それまでは石はあったわけですね。
上野さん)はいはい。


(写真:2011年1月30日に、「箱」にかわって三人の名を刻んだ石が置かれた。行方不明になる前の最後の写真。2011年7月29日撮影 )

なかなかわかってもらえない悲しみ

聞きて)なかなか、思いを分かってくれるってことは難しいんですね。
上野さん)難しいね。
そうなってみないと分からんというのが、分かります。それはね。
自分がそうだったしね。
聞きて)自分がそうだったというのは?
上野さん)人の死いうのは、「亡くなってかわいそうやな」とか、そういうふうには思うけど、それ以上のことはね。なかなか考えられなかったですね。今までね。想像力がいるというかね。

「生きてこそ」 講演活動で伝える命の大切さ

聞きて)その後、上野さんは講演活動にも力を入れておられます。そんな中でいつも語ってらっしゃることはどういうことですか。
上野さん)それは「生きてこそ」です。命があるあいだね、命を大事にしてほしいということを一番言ってますね。
死んだらおしまいやってね。「生きてこそ」いうのはそういう意味です。


(写真:アパートから取り出した数々の遺品の中に、志乃さん直筆の「パラパラ絵本」があった。復興された絵本を手にする政志さん。2021年11月21日)

アパートで見つけたパラパラ絵本 高校の後輩が復刻

聞きて)志乃さんの書かれた絵本について記事を見たんですが、5年下の後輩の方が復刻されたとお聞きしたんですけれども、その志乃さんの絵本はどのようにして発見されたのでしょうか。
上野さん)それは遺品の中にあったわけで。
聞きて)瓦礫の中から?
上野さん)そうですそうです。
聞きて)「泳ぎたかった魚の話」という、製本の形で見つけて、お手元に置いてあったんですね。
上野さん)ええ、パラパラ絵本といってね。本のかたちで綴じてあった。
(主人公の魚は)海の中で泳いでとったんですね。それが、空を泳ぎたかったわけで、ずっと、上がっていって、親子で、こいのぼりになっていく。(そういうストーリーです)
聞きて)美術の授業で作った作品ですか。
上野さん)実習作品ですね。
全く同じようにして(復刻して)もらったんです。だから、色具合もみんな一緒ですね。シミがいっとるのもみんなそのままですね。

聞きて)龍野高校の5年後輩の、本下瑞穂(ほんげ・みずほ)さんから連絡もらって…。その次の年の1月17日に、現場に来ていただいて。
聞きて)灘区琵琶町に?
上野さん)ええ、初めて会って。
その後、神戸大学の食堂で会って、こんなんもあるんですよと言って見せてあげたら、「これ、いいですね」って言って。皆さんに紹介したらどうですかということになってね。それで、話が進んだんです。
聞きて)何をやってらっしゃる方ですか?
上野さん)デザイナーです。印刷屋にかけて、100部作りましょうと言って、できました。


(写真:原本から復刻された「パラパラ絵本」。手のひらサイズの60ページをめくると、黒いペンで描いた魚が泳ぎ出す。水中から空へ、そしてこいのぼりに。家族が増える姿が描かれている)

神戸大でも続けてきた震災の授業や講演

聞きて)神戸大学の学生たちのためにも、毎年、講義に来られていましたね。
上野さん)発達科学部の浅野慎一教授(地域社会学)の授業を、娘が受けとったんですよ。で、先生が、娘が書いたミニレポートあるでしょ。授業のあとに書かせるレポートを、何枚かね送ってきて下さいました。一度、話をしてもらえんかという話があって、それで4年ぐらいですかね、社会学の授業の中でお話ししました。

上野さん)そのあとも、ボランティア担当の先生に呼んでもらったり、震災救援隊の学生さんも呼んでくれて、いろいろな機会にお話をさせていただきました。
聞きて)全学年対象の総合教養科目でも、上野さんの講義がありましたね。
上野さん)はい。北後明彦先生らの、「阪神・淡路大震災」という授業にも2019年度まで行かせてもらってました。コロナがなかったら、まだずっと続いていたはずです。
聞きて)「阪神・淡路大震災」の授業の、学生たちの反応はどうでしたか。
上野さん)終わったら、拍手があったんです。
担当の方に言わせると、「拍手が起こる講座なんかありません」とね。
そういうことを言われたんで、まあよかったなと思って…。

<涙ぐむ、上野さん>

聞きて)学生たちにとっては、自分たちの先輩が、震災に遭ったんだというお話を聞くわけですよね。
上野さん)初めて聞かれたみたいやね。
聞きて)志乃さんの母校の後輩たちに話すというのは、やはりお父さんにとっては大切な場ですね。
上野さん)ですね。

メディアの取材受けると、ふと心が軽くなった

聞きて)震災後、志乃さんの死を受け入れるまでにはどれぐらいの月日がかかったのでしょうか。
上野さん)そうですね。なかなかね。
そこで、「なんとかしていこう」ということになってるのは確かかなと。その1つの活動は、まあ「伝えること」もあるかなと思ってね。
聞きて)「伝えること」とは?
上野さん)一番最初に受けたのは、読売新聞だったんですけれど。「こんなことで記事にしたいんだけど了解できますか」というお電話を頂いて、「したければどうぞ」というような、感じでね、OKして。そうしたのが、1月21日に出た記事で、それが大きく志乃の記事が出たんです。
聞きて)新聞記事に。
上野さん)まあそっからですね。いろいろな記者が、問い合わせて来られるようになって…。お話をよく聞いてくれましたよね、みんな。泣きながらしゃべってたんでね。それでも聞いてくれたんで。
聞きて)いろいろなメディアの取材を受けられるようになったんですね。
上野さん)そう、そう。何回目ぐらいか、そういう、取材を受けていて、本当にねふと、気持ちが軽くなったことを覚えてるんです。
何でかなと思って考えたら、話ができたということが、気持ちを軽くしたんじゃないかなと。確かに今でもそう思いますね。
それから、まあまあ、受ける時は必ずお話しさせてもらいますと言って受けて、(これまでに)30人か40人から、受けたことはありますね。
上野さん)そうですね。
それが逆に、連れ(妻)との亀裂を生じるということにはなったんですね。
そういうことはしたくないと。そんなわざわざなんで、人の不幸を話すんやという考えだったから…。

震災前は平凡な生活だった

聞きて)改めて、震災でのご自身の変化はありましたか?
上野さん)そうですねやっぱり、震災前はごく平凡ですよね。普通に。平凡な生活でしたしね。子どもも4人できてね。平穏な生活をしていたわけですから、
そのあとはね、深く考えるという。命のことについても考えられるようになったし。まあ私自身は、障害のある人への教育が専門だったというのもあって、基本的には、弱い人の立場にいつも立とうという気でやってたから。弱い人の味方になるという思いは強くなりましたね。
だから、震災があったら、東北も(ボランティに)行きましたし、大分県臼杵市の大雨の災害があったときも行きましたしね。できることはしようというね。というふうにしてきましたね。


(写真:神戸大学六甲台本館前の慰霊碑で。献花式が行われた日に。2021年1月18日撮影)

神戸大の慰霊碑 お参りできる場所

聞きて)神戸大学に慰霊碑があって、毎年慰霊祭がありますけれども、上野さんから見て、神戸大の慰霊碑はどんな存在ですか。
上野さん)あーやっぱり、そういうものがあるということでは、お参りができやすいという面もありますね。記念樹植えてほしかったなと思いますけれどもね。

聞きて)1月17日はどのような行動をされますか、
上野さん)毎年、3時ごろ起きて出かけるんですよね。朝5時46分に間に合うように。
聞きて)佐用町のお宅を出発するんですね。
上野さん)はい。で、大体5時ごろに、(琵琶町のアパート跡に)着くんです。
東遊園地にも寄って行くんですけれども。そこでお話ししたりして、帰る時もあるし。休みの日とか、休みが取れる時には、(神戸大学の)慰霊碑にね、お参りに行きますよね。そういう、過ごし方ですね。

<前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d36e620a22d68ccc12b625fbb6825445

<2021年11月21日取材/2022年1月13日 アップロード>

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