【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)=父・博昭さん、母・典子さんの証言=<後編>

 二宮健太郎さん(当時21歳、千葉県市川高校卒、法学部2年・根岸ゼミ/テニスサークル「ビッグアップル」所属)は、神戸市灘区友田町4丁目1番地のアパート2階で亡くなった。圧死だったという。
 母・典子さんは何か月も泣き続けた。あとは自分の心を閉ざして過ごして来たと話す。このインタビューの日、久しぶりに感覚の扉を開けたと語ってくれた。

 神戸で大きな地震がありました、という1行で終わせてほしくないという母。
 関西出張の折にはときどき大学慰霊碑に立ち寄るという父・博昭さんは、後々に伝えていくことは、「リスク管理にも、人間形成にも通じる」と語る。
 取材班は、千葉県船橋市のご実家を訪ねて、父・博昭さん(78)、母・典子さん(72)にお話をうかがった。

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61


《写真 インタビューを受ける父・博昭さんと母・典子さん》

冷たい安置所に家族3人 「あれが本当のお通夜だった」

きき手)王子スポーツセンターに、お母様と次男の潤一郎さんが到着したのは、だいたい何時ごろでしたか?
母)もう真っ暗でした、真っ暗です。夜の8時、もっと(遅かった)かな。伊丹から車で行くのも、街灯がないようなところを車の光だけで。そうすると電信柱が倒れてて、電線が垂れ下がって道を横切っているとか。道路がひびで段差があるとか、そういうところを抜けながら走ってくれたんで、はっきり覚えてないですね。
でもとにかくスポーツセンターに着いて、なんか…あれが本当のお通夜だったんですけれど。とにかく、冷たかったとしか、覚えてないですね。
どういうふうにしてひと晩過ごしたのかというの、ほとんど記憶にないですね。
きき手)スポーツセンターは体育館の1階のフロアでしたか?
父)ものすごく広いところですよ。体育館は。
母)その隅っこで、3人でいたよね。

母)健太郎が安置されていた場所と違うところで、一晩過ごしているから。
きき手)そうなんですか。
父)すぐ横で寝たわけじゃないんです。
母)だから安置されているところは、数十センチの間隔で、遺体がいっぱい並んでいましたので、横で寝れるような状況ではなかったですね。
きき手)そんな中で、ほかの神戸大生も同じスポーツセンターに安置されていることを聞かれたわけですか?
母)そうです。あの人は応援団の団長さんとか。そういうふうな話も、伝わってきてましたしね。

きき手)では健太郎さんは、胸にダメージを受けたのですね。
父)間違いなくそうでしょうね。美しい顔をしていました。
母)そのまんま寝ている感じでした。

「健ちゃんの代わりに僕が死んだらよかった」

きき手)当時、次男の潤一郎さんはおいくつでしたか?
母)1つ下なんです。健太郎は一浪してましたから、だから、同じ大学2年生でした。関東の方の大学の。
きき手)弟さんは、お兄様がそういう状況だというのを、どう受け止めておられましたか?
母)空港に私と行く時に、「健ちゃんの代わりに僕が死んだらよかった」って言ってました。怒りましたけど。
「どっちも大切な息子なんよ。そんなこと言うたらあかん」って言って怒りましたけどね。
母)とにかく、健太郎が大好きな子だったです。
「兄貴が、親の面倒を見てくれるから、僕は自由気ままに過ごさせてもらう」って。健太郎のほうも、「お前は団体生活多分無理やろうから、手に職をつけたほうがいいぞ」って、そんなこと言うような、仲のいい兄弟でした。
父)今、バンコクで元気に働いてますけどね。
きき手)何をなさってらっしゃるんですか。
父)会計事務所に、税務関係の資格も取ってましたので、だから、それを生かすような仕事をやっています。
母)まあ、そういう、税理士の資格を取るのも、健太郎が「お前は何か資格とれよ」って、言ってたんで。だから、兄貴の遺言だと思って勉強してましたね。

父)健太郎は、根岸ゼミに行くことが決まったんですよね。決まって喜んでたんですよ。
まだ、ゼミのスタートに間に合わず、その前に亡くなったんですが。
きき手)3年生から正式にゼミ生になれるはずだったんですね。
父)ですから、根岸先生に決まったよって報告を受けて。独禁法の先生でしょ、根岸先生は、私がいた企業法務の中ではよく知られた先生でした。


《写真》実家に帰省して、父・博昭さん(右)、弟・潤一郎さん(中央)と。(2022年11月20日午後)

被災者の中に似た青年 「健太郎が挨拶に来てくれたんかな」

きき手)健太郎さんに、お母様と次男の潤一郎さんが合流された時、奥様はどんなご様子でしたか。
父)はー(大きなため息)。
母)覚えてないね。
父)そりゃね。覚悟しきって、来ましたからね。
母)涙が出たかも覚えてないですね。

母)ただ、私はすごく、印象強くて、あれ健太郎が挨拶に来てくれたんかなと思ったのが…、その日じゃないんですけれど、明るかったんで、その1日、2日後だったかもしれないんですけれど。
伊丹の実家から神戸に走ってもらっているときに、途中で、西宮辺りだったんですけれど、被災された方たちが並んでいる中に、後ろ姿が、まるっきり健太郎の姿の子がいたんですね。
思わず、健太郎ー、健ちゃん!と言って叫んだんですけど。
その人とは、もう1回西宮辺りで、姿を見てるんですが、車の中からですから、お顔は分かんないんですけど、後ろ姿。ただ体格がまるっきり息子の体格だったんで。だから、健太郎が、最後の別れに来てくれたんかなとか思ったりして。そのときは、涙が出たけれど。

この20数年、閉ざした感情

母)一晩スポーツセンターで過ごした時とか、涙が出たような覚えがないんですね。
もう何か、別世界に自分が入れられたというような感覚だったと思うんですけど。
何かこう感情を閉ざしてしまったというか。それを、開けると、どうなるか自分が分からないから、閉ざしちゃったみたいな、そういう感覚だったんかなと思いますね。

母)だからきょう、久しぶりに感覚を、扉を開けちゃって。今まではもう本当に、この20何年間できるだけ(閉ざしていた)。
最初の半年とか2、3年は狂ったみたいになっていたんですけれど。でも、そこから立ち直って、あとは自分の心を閉ざしている。
神戸の震災のことに関しては、できるだけ刺激を与えないようにして、過ごしてきたという、そういう感覚があります。

「ここに涙を溜めて」 友人の陶芸作家が鉢を作ってくれた

父)会社から帰るでしょ。毎日ね。もうずっと、何か月も泣き続けなんですよね。泣き続けて、もう本当に、出る涙が無くなるのではないかと思ったぐらいで。
部屋の奥に大きなボウルがあるでしょう。鉢がありますが。
父)あれは、家内の友だちで陶芸家の方が、「二宮さん、そんなに泣くんだったら、この中に、思いきり涙を入れなさい」、「これを一杯にしなさい」と言って、あれを作ってくれたんです。
私もずっと、夫として何ができるのか途方に暮れていましたので、友だちの優しさをつくづく感じました。

きき手)会社に行かれるとお仕事ですよね。
母)だから男の方はいいですよね。気を紛らわすことが、ありますから。
父)その違いですよ、そう。


《写真》典子さんの友人の陶芸作家が作ってくれた大きな鉢。(2022年11月20日撮影)

ゆかりのある豊中に遺体を運ぶ

きき手)王子スポーツセンターでは、まだその健太郎さんを連れて帰るわけにはいかない手続きがありましたね。
父)翌1月19日の午前中に、検視がありました。
きき手)ドクターがそこにいたんですか?王子スポーツセンターに。
母)巡回して来てましたね。
父)たくさん手分けされていたんじゃないかと思います。(遺体が)多かったですからね。結構時間がかかりました。待ちに待ちましたからね。

父)19日の午前中にやっと検視が行われて、午後になって、健太郎を大阪・豊中の方へ、「玉泉院」という葬儀屋さんですが、運びました。
玉泉院の葬儀用の車がありますよね。
やっと棺もできて、それでもって運んで。

きき手)千葉ではなく豊中でというご判断は、お母様の実家も近いということなんですか?
母)まず連れて帰るという気持ちはなかったんです。で豊中は、昔住んでいたところです。
父)住んでいたんです。
きき手)関西時代に住んでいらっしゃった?
父)はい。われわれが以前住んでいたのは、豊中市の曽根なんです。ですから、庄内の玉泉院はそんなに遠くはないんですね。土地勘があるでしょ。
そして、健太郎のお友だちのね、それ(交通の便)もありますし。葬儀をやるなら、やはり関西でやったほうがいいだろうという判断でした。
母)私の父もまだいましたし、弟夫婦も(伊丹に)いますから。
きき手)関西の方が、お知り合いや親戚も多いし、ということで豊中を選ばれたんですね。

医学部で検案書を入手 灘区役所に死亡届

きき手)そしてそのあと、お父様の記録では検案書入手となっています。1月20日ですか。
父)はい。
きき手)これちょっとタイムラグがあるんですね、検視から。
父)そうですね大学まで行きまして…。
きき手)取りに行かなきゃいけなかったんですか?
父)はい行きました。
きき手)大変ですね距離がありますし、交通ストップしているし。
父)我々はまだ、泊まるところが伊丹のほうでしたから助かりました。
いちいち、東京とか往復するわけにもいかないし。

きき手)医学部で検案書を入手する、灘区役所に死亡届という移動は、弟さんの車で行かれたんですか。
父・母)そうです。
母)住民票は、神戸に移してたんです。
そんなことがあるとは思わないでただ、ちゃんと、自分がいるところに住民票を移しておいた方が何かあったときにはいいかなと、こっちに置いておくよりは持っていきなさいと言って。

順番待ちで、1月26日にようやく告別式

きき手)その後、1月21日が、湯灌となっています。
父)玉泉院は、それなりに広さはあるんですが、ここも満杯の状態でね。棺が並んでいて。これはちょっと時間がかかるなと感じました。そのとおりになりました。
きき手)順番待ちになってるわけですね。
父)そうなんです。

きき手)1月26日木曜日、さらに5日ほど後にやっと告別式が行われました。これは何待ちだったんですか。
母)もしかすると焼き場の順番待ちかな。
父)向こうの事情はよく分かりません。私たちが言われたのは、お通夜どうしますか?お葬式どうしますか?みたいな。お通夜はしません、ということを言いました。
きき手)それはなぜですか。
母)もう、スポーツセンターで過ごした一晩がお通夜です。

母)交通手段で、みなさんが来て下さるのかどうか分からない。そんな時にお通夜なんて、迷惑になると。我々だけで、お通夜をしたんだから、もうお通夜はいらないと、決めましたね。

母)次の日の、お葬式の日は、阪急電車動いてた?
父)阪急は動いてたんじゃない?全線じゃないけどね。西宮北口までとかね。
母)お友だちとか何か。あんなにたくさん、来てくれるとは思わなかったもんね。

友人も約80人が参列

きき手)告別式はどんな様子でしたか。
父)参列者140名なんですね。うち、友人80人です。
私の会社関係でたくさん来てもらうというのは、違うだろうなと。やはり健太郎の葬儀なんで、友だちを最優先にすべきだと判断しました。
会社には、そこら辺りは徹底しまして。それでも、手伝いの申し出もありましたもんですから、最小限の人間でやりました。
学生のみなさん、友だちに、たくさん来ていただきました。
きき手)大学のお友だちが多かったのですね。
父)もちろんそうですよ。テニスサークルとかね、そのほかの友人の方々も、いろいろおられたんじゃないかと思います。
母)サークルは神戸大学だけじゃなくて、周りの大学の…。
きき手)いわゆるインカレサークルでいろんな大学のメンバーがいたわけですか?
母)そうです。そういうところからも来て下さってたんだと、思うんです。

きき手)たくさん来られたんですね、80人も。だってみなさん、交通も大変だし自分のおうちも大変だったかもしれない。
父)よく来ていただきましたよね。

会長をしていたテニスサークルに優勝杯を贈る

父)健太郎はテニスをやっていました。テニスサークルで、ヘッド(会長)だったんです。震災から少し経ってから、私の方で優勝カップを作って、健太郎のメモリアルというかたちで大会を開いていただいて。優勝カップの取り合いみたいな感じで、やっていただきました。健太郎の思いが何らかの形で伝わったかなと、思っています。
きき手)つまり「健太郎杯」のようなかたちですね。
父)そういうことですね。

きき手)健太郎さんが所属していたのは、当時のニュースネットの紙面には、「テニスサークル・ビッグアップル」とあります。
父)そうです。
きき手)では、そのお友だちも、豊中での葬儀にはたくさん参列されて。で、1月27日に、こちら(千葉県船橋市)に帰ってこられた。
父)そうです。


《写真》学園祭「六甲祭」では、テニスサークル「ビッグアップル」の仲間と模擬店を出した。中央が健太郎さん。(1994年11月13日撮影)

葬儀では好きだったミスチルの曲

母)地震のあった日の直前の、彼の行動なんですけど。高校時代のお友だちが、阪大に行っていて、豊中にいたんですね。
服部くんっていうんですけれども、そこへ、健太郎は遊びに行っていて、その時に、僕のいま好きな曲やと言って、ミスチル(Mr.Children)のテープを流してたらしいんですね。
きき手)前日ですか。
母)2日前、1月15日です。
15日は2人で騒いだあと友だちのうちで泊まり、翌日も泊まっていくよう誘われたようですが、健太郎はバイクに乗って、家庭教師のバイトがあるからといって、神戸に戻って、家庭教師をして。国語が苦手な生徒さんに、どうしたらいいか考えていたようです。
健太郎のアパートのすぐそばの道沿いに、小さなレンタルビデオ屋さんがあったんです。そこでもバイトをしていたんですが、1月16日の夜はそこに立ち寄って、借りていたビデオを何本か返して、明け方の3時ぐらいまで、そこでお喋りをしていたそうなんです。
父)新在家の駅のほんの近くです。
きき手)大きな、通りに面している。
母)で、確か午前3時ごろまでおしゃべりしてて、それで、自分の部屋へ戻って…。だから、眠りが深かったんだと思うんですね。2時間ぐらいあとにドーンとなったわけですから。

母)それで、お葬式の時も、彼の持ってたそのミスチルのテープを会場に流しました。
まだミスチルが出てきて、1年、2年、それぐらいの頃だったんでしょうかね。
きき手)家庭教師しなくて、そのままお友だちの家にいたら…。
母)友だちが泊まれよって、言ってくれているのに。
父)アルバイトの家庭教師の教え子の家は、王子スポーツセンターの近くなんですよ。因縁というかね。

父)あいつも、律儀な人間ですからね。
母)高校時代の友だちで、関西に行ったのはその服部くんと、うちの健太郎と2人ぐらい。しょっちゅう、つるんで遊んでたみたいなんですけど。
きき手)ちょっと時間がずれていたらと思いますよね。
母)もしお酒飲んでたら、バイクにも乗らへんかったやろうなとかね。
バイクは大好きな子だったんですよ。

(編集部注:ミスチル=Mr.Children<ミスター・チルドレン>。1992年5月にメジャーデビューした4人組ロックバンド。1994年発売のシングル『innocent world』で初のオリコンチャート1位を獲得した)


《写真》バイクが好きだった健太郎さん(1994年9月26日撮影)

最後に会ったのは2か月前 愛媛の祖父の一周忌

きき手)震災に遭う前に、健太郎さんと最後に会ってことばを交わしたのは、いつでしたか。
父)前の年の11月ですね。私のふるさと、愛媛県の八幡浜市に私の実家があって、おやじが1993年に亡くなったんです。
で、1周忌が、1994年の11月だったんです。
健太郎もそこに来て、1周忌を行ったんですね。
(法要が)終わったら、今度は松山の方に行って。そこにお墓があるんです。
お墓で手を合わせるでしょ。
おじいちゃんが亡くなって1周忌に墓に来たわけですから、健太郎に向かって「次にお墓に入るのは、お父さんだからね。お前もしっかり、あと面倒を見てくれよ」と、お墓の前で彼と話をしたんです。そしたら彼は律儀に、「うん」と首を縦に振って、それで、神戸へ帰っていったんですね。
それから、2か月たたないうちに震災で健太郎が亡くなってしまった。順番が変わってしまって、私が、彼をお墓に入れなきゃいかんことになってしまった。それが最後の、彼との接触でしたね。


《写真》祖父の法要のあと、松山のお墓の前の健太郎さん(左端)。(1994年11月20日)

4日後に千葉の実家に帰ってくるはずだった

母)1995年の正月には帰ってこなかったんです。
きき手)千葉には帰ってこなかったんですね。
母)というのは、私の実家では私の父がまだ元気でいましたから、健太郎は「おじいちゃんとこで年末過ごさせてもらうわ」と言って。それで、1月の21日に、帰ってくるって言ってたんです。
きき手)千葉・船橋には…。
母)試験が終わってから帰るから、お正月は帰らへんわ言って。
確か21日に帰ってくるって言ってた。試験が終わってから。

多くの友人に好かれて サークル活動に熱中した日々

きき手)健太郎さんのどんなところが、お友だちを引き付けていたのでしょうか。
父)気持ちがものすごくおおらかな人間。ポジティブでした。
私も、下宿に何回か行って語り合い、近くの居酒屋に行って酒を飲みながら楽しく過ごすこともありました。
彼は、前向きに物事を考える人間なんだなと、そういう、印象を強く持ちましたね。千葉にいるころは、人間対人間の話をすることは少なかったんで、よく分からなかったんですが。
テニスサークルでも、結構、男性女性問わず、友だちが増えて結構エンジョイしてたんじゃないかなと思いますね。

母)あの1年生の時から、ビッグアップルの活動が楽しくてしょうがなくて、合宿だの何だの買い出し係。もう次の年は、会長はお前って言われてたらしいんですね。
それで、私に彼が言ったのは、「お母さん、僕、留年してもいいか」って、「僕、サークルの方の活動に、力を入れたいねんけど」って言うから、「あんたそれ、違うでしょ、学生の本分は勉強でしょう」って言って、笑っていさめたことがあるんですけど。それぐらいその、サークル活動がすごく楽しかったみたいで、だから、彼の、アパートには、結構いろんな人が、出入りしてたみたいです。


《写真》健太郎さんを追悼するメッセージが書かれた、テニスサークルの仲間の色紙。(一部画像を加工しています)

母)だからもう、下の息子も、とにかく、健ちゃんがいるから、何でも健ちゃんがやってくれるからって、ずっとそんなふうで。今でも、そんなこと言ったりしてますから。いたらボクもっと楽やったのになあとか。(笑)

きき手)告別式の時に、健太郎さんの友人とは何かお話とかされましたか。
母)法学部のお友だちが1人いたね。あとはビッグアップル系の人が多かったね。
お葬式の日の記憶っていうのはほとんど、頭から消えてしまってますね。
父)私の会社の若い人たちに、告別式のビデオを撮ってもらったんですが、1度も見たことがないんです。元気を持って、それを見つめるというか、そういうエネルギーがなかった。そういう状態でしたね。
健太郎の友だちとはもう少し話ができてたらよかったな、と今になって思っているところです。

愛媛まで墓参りに来てくれた友人も

きき手)告別式のあとに訪ねて来た人はいましたか?
父)ビデオのお店の人とかね、家まで来ていただいて。
母)最後のバイト代を持ってきて下さった。それと彼が好きだったお酒を。
父)酒を持ってきてくれましたね。
父)お酒が強い子だったですね。

父)それから、お墓参りをね、お墓は松山にあるんですが愛媛県の。そちらのほうに友だちが行ってくれたようでした。
母)何か書いてくれてるのね。
父)その時、皆さんが寄せ書きしてくださっていたようで、たまたま、その紙片がお墓の前にありましたので、持って帰りました。
遠くまで友だちが足を運んでお墓参りしてくれたんだなというのが分かりましたですね。非常にうれしかったです。

母)こちらで通っていた中学時代のお友だちも、2回ぐらい、社宅に住んでた頃に、お友だち同士が集まって、寄ってくれたことがありましたね。命日だからとか言って。
きき手)親は分からない交友関係も、そういう時にわかりますね。
母)それとたしか、予備校時代のお友だちも、何人か来てくれたよね。
きき手)健太郎さんには結構いろんなお友だちがいたんだなと思いますね。

後世に伝えるべきものを消さないで

きき手)1月17日には大学キャンパスで、慰霊の献花式があります。お父様お母様、は慰霊碑には、なんども行かれたことがありますよね。
母)主人は大阪出張の時とかに、神戸に行っています。
父)けっこう、はい。
母)私は関西に戻る時に、神戸に友だちとかいるし、一緒に大学まで行ってもらってとか。東遊園地(慰霊のモニュメント)に寄ったりして、関西に戻る時には行ってます。
ただ大学に、慰霊碑のところまで私が行ったのは3回ぐらいですかね。
コロナになってからは、まず関西に行くことができません。

きき手)先生方もどんどん退官されて、人も替わります。学生も4年に1度で入れ代わってしまいます。震災があったこと、慰霊碑があることは、どうやったら伝わっていくでしょうか。
母)行事としてやっていくのは、何年かしたらだんだんと細っていく。でも、歴史の1ページにしちゃいけないと思うんです。こうして伝えていただくのは、本当にありがたいことやなと思います。でも、今の学生さんたちに、こういう思いをかぶせるのも悪いなと思ってますけど。

きき手)今の学生が生きている間にまた何かが起きるでしょうし。
母)南海トラフだって、ねえ。
きき手)その時に今の学生が、いままでそういうことがあったんやというのを知っているのと知ってないのではちょっと違うかなと、思いますよね。
母)こういう大きな災害があった時に、日本国民としての矜持の持ち方といいますか。
神戸のあの時見ても、みんなが、お水を運んだり、そういうのを知ってるのは私たちの年代か、もう少し下の人たちなので。これを、神戸で大きな地震がありましたっていう1行で、終わらしたら、それこそ、後世に伝えるべきものが消えてしまうような気がする。
父)日本は、その災害列島としての特殊性を持っているがゆえに、その、位置づけというかね、そんなんをしっかり見定めて、後々に伝えていくことは、リスク管理というふうなことだけでなくて、人間形成というか、そういうふうなものにも通じる、そういうことではないかなと、私は思ってます。

きき手)健太郎さんをはじめ39人の学生さんが、あの時亡くなられて、そういう先輩たちがいたんだということを、私たちは忘れてほしくないと思っています。そしてそういう事実が、町であったんやということを知らずに、そのまま神戸を通り過ぎてほしくないなというふうに思っています。今日は長時間ありがとうございました。
父・母)ありがとうございました。

【二宮健太郎さんの歩み】
1973年 豊中で生まれる
2歳から4歳まで父・博昭さんの留学でアメリカに
1980年 豊中の小学校に入学
1981年 奈良県の小学校に転校
1987年 父の転勤で千葉・船橋の中学に転校
1989年 千葉県の市川高校に進む
1993年 神戸大学法学部入学
1995年 阪神・淡路大震災で被災


《写真》リビングに飾られた、健太郎さんの写真。(2022年11月20日撮影)

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています

https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1

<2022年11月20日取材/2023年1月13日 アップロード>

【編集部注】集合写真に写っておられる方すべてに承諾を得ることができていません。写っておられる方で、画像加工を希望される方や、掲載取り消しを希望される方は、お名前と連絡先(メールアドレス)を 神戸大学ニュースネット委員会 newsnet_kobe_u@goo.jp あてお知らせください。

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