【05年写真】跡地に建ったワンルームマンション。 【97年写真】森さんは、1階西の部屋で梁に直撃されて亡くなった。 |
<05年> 木造二階建てのイーストハイムでは森渉さん(神戸大・法・当時四年)が亡くなった。建物は全壊、遺体は梁に直撃されていた。< 97年当時、跡地はマンションの建設中だったが現在は完成。(ヴィーゲッツ本山)2階建てのワンルームマンションになっている。震災直後、更地になっていた土地を現在の大家さんが購入したという。周辺は高級そうな一軒家が多く立ち並んでおり、復興の様子が見られた。 <97年> 森渉さん(神戸大・法・当時四年)が被災した、木造二階建てのイーストハイムは全壊、跡地には新たにマンションが建設中だ。森さんは、一階西の部屋で被災した。 斜め向かいで自宅が全壊、夫の讓さん(当時77)を亡くした川上博子さん(71・無職)は、当時の状況を細かく覚えている。 「あの朝やっとのことで家からはい出すと、森さんのアパートは一階がそっくり抜けてしまっていました。ほかの方はうまく逃げられたようなのですが、森さんは梁に直撃されてしまったようです。うちもそちらもどうしようもない状況で、人手もなく、私は次の日まで小学校に避難していました」。 「翌日の昼頃、近くに自衛隊の方々が来ていたので、うちとそちらの作業をお願いしました。主人と森さんの遺体を取り出すのに四時間ほどかかりました。自衛隊の方は本当に丁寧に作業してくださいました。森さんのお父さんがいらして、うちの主人の遺体と一緒に神戸商船大に遺体を安置しました。あの土地は、前の持ち主が手放してしまったようですね」。 跡地に建つマンションは新しい住人を迎えることになる。周辺には比較的古い建物が多く、被害が大きかったと川上さんは話す。 |
2年ごと同じ駐車場のまま
吉田荘(神戸市東灘区本山南町7−5−17)
【05年写真】97年当時のままの駐車場
【97年写真】木造2階建ての吉田荘は、全壊後すぐに更地になった。 |
<05年> 沈一春さん(神戸大・法・当時四年)が亡くなった吉田荘跡は、2年後の97年同様、駐車場のままであった。一方、周辺にはマンションが立ち並んでおり、駐車場のような更地として使われているのは、この土地だけであった。 <97年> 沈一春さん(神戸大・法・当時四年)が被災した吉田荘は現在、駐車場になっていた。当時の吉田荘と道路を挟んで向かいにある工場の豊田優さん(40・会社員)に十七日の状況について聞いた。 「吉田荘は全壊を通り越してこっぱみじんでした。言葉で表現するのが難しいぐらいです。」と生々しく語ってくれた。 地震後はすぐに更地になり、昨年の二月頃にできた駐車場を見ていても地震があったことを全く感じさせなかった。 |
更地もマンションに 周囲も新しい家が
玉谷荘(神戸市東灘区本山南町7−5−17)
【05年写真】5階建てのマンションに 【97年写真】玉谷荘付近は、死者が非常に多く出た地域だった。 |
<05年> 神徳史朗さん(神戸大・工・当時三年)が亡くなった玉谷荘は5階建てのマンションになっている。定礎は平成10年7月。隣に住む人の話では大家は玉谷さんのまま変わっていないということであったが、玉谷さんの話を聞くことはできなかった。震災当時は築3、40年の家屋が密集していたという周辺も、新しい家が建ち、その面影はなかった。 <97年> 神徳史朗さん(神戸大・工・当時三年)が被災した玉谷荘は現在、更地である。南隣りに住む山内潤三さん(72・当時武庫川女子大学文学部教授)に当時の状況を尋ねた。 「私は、軍隊経験があって、非常事態にもある程度は慣れていました。だから、僕が教えるからと言って学生達に教えながら救助活動をしました。一日半ほどかかって八人助けたんですが、二人は亡くなりました。この辺りは死者の非常に多く出た地域でね。三日目には自衛隊も来ましたが、家主の許可がないと助けられませんと言われ、私たちだけでやりました。近所の方も逃げてしまって、誰もいない中で学生が本当によくやってくれました。神徳さんの友達もやって来ていて救助に当たっていたんですが、神徳さんは玉谷荘では一番最後に救助されていたと思います、出されたときにはすでに亡くなっていました。梁がどうしても邪魔になって助け出せない人もいました。その人は声をかけても返事はなかったんですが、体はまだ温かかったんです。しょうがないから学生に頼んで梁をのこぎりで切ることにしたんですよ。すると瓦礫の重みでみるみる体温が下がっていって、梁が切れたときには冷たくなってました。それを思うと本当につらいんです。殺してしまったんじゃないかって思えて。」そう語る山内さんの目には涙が浮かんでいた。 だが、その更地にも一月中頃から五階建てマンションの建設が始まる。家族向けのマンションになり、新しい住人が暮らし始める。 |
大家さんの自宅に 下宿再開せず
浜田文化(神戸市東灘区田中町4−4−22)
【写真】浜田文化では、工藤さんと会社員の2人が亡くなった。現在も同じ |
<05年> 工藤純さん(神戸大・法・当時院一年)が亡くなった浜田文化は当時の大家、浜田さんの自宅になっている。下宿は営んでいない。工藤さんの遺族と交流はないが、神戸で震災事業があるときは神戸に来られているらしいと話していた。 <97年> 工藤純さん(神戸大・法・当時院一年)が被災したのは木造二階建て八部屋のアパートだった。 現在、跡地には全壊したアパートを管理していた濱田増蔵さん(87・無職)の住宅が建っている。当時の話を増蔵さんの娘である濱田敦子さん(55・無職)に聞いた。 「アパートは全壊し、一階に住んでいた工藤さんと会社員の二人が二階の下敷きとなりました。自然の災害だからどうしようもないとは思いながらも、やはり未来のある御二人を亡くしてしまったということはつらいです。何回も工藤さんの御両親が見えられましたよ」。 九六年五月に建った濱田さんの家はきれいな住宅である。それだけに隣の更地が目に付いた。 工藤さんの母・延子さんは、被災して亡くなった学生の母親同士七人で文通をしている。法学部、吹奏楽部、同じ愛媛県の人、遺体安置所で隣あわせだった人……。「手紙を書くときだけでも、心がなごむんです」。しかし、なかには手紙のやり取り自体も辛いという人もいるのだという。 「息子が住んでいたときには一回しか行かなかったのに、(地震後)十五回も神戸に行ったんです。吹奏楽部のコンサートや、六甲祭にも行ったんですよ。まだ神戸に息子がいるような気がして」と話す。「主人は神戸に行くこと自体辛がっているんですが、私は、神戸とか神戸大学とか聞くと懐かしくなって……」。 |
社宅マンションに 一階にはコンビニ
郡家マンション(神戸市東灘区御影町郡家字大蔵2−7)
【05年写真】一階にはコンビニも
【97年写真】郡家マンションは、最も古い棟だけが地震で倒壊した。 |
<05年> 神戸大国際文化学部の研究生として学んでいたミャンマー人のキン・テイ・スエさん、ウエイ・モウ・ルインさんが亡くなった郡家マンション。現場はJR線の高架のほど近くにある。現在同じ名前のマンションが建ち、一階はコンビニエンスストアに。居住部分は(株)武蔵野神戸工場の社員・パート寮になっている。竣工は12年2月。97年は更地。建て替えの工事標識があった。 <97年> 平成六年から神戸大国際文化学部の研究生として学んでいたキン・テイ・スエさん、ウエイ・モウ・ルインさんは、一緒にミャンマーからやって来た留学生だった。彼女たちが被災した郡家マンションは、三棟からなるコンクリート製の七階建てマンション。うち二棟は当時のまま残っているが、東側の棟だけなくなっていて、草の生い茂った更地になっている。無事だった棟に当時から住む吉田悦子さん(32・パート)に話を聞いた。 「三棟あったうち、お二人の住んでいた東側の棟だけが古いものでした。私たちの棟は倒れずに済んだので、揺れが収まると家族で近くの小学校に避難しました。そちらの棟は、見た感じではよく分からなかったのですが、後で見ると一階がつぶれてなくなっていました」。一階に住んでいたスエさんとルイさんはなすすべがなかったようだ。 「あそこは一昨年の春に取り壊されました。震災から一年たった頃、花束が三本、置いてあったように思います」と吉田さん。「日本とミャンマーの交流の架け橋となりたい」という二人の夢が、誰かに受け継がれてゆく事を願いたい。 |
「背負っていることに慣れていくんでしょう」
サニーハイム(神戸市東灘区住吉南町5−8−24)
【写真】05年になっても銭湯のあった場所は更地のまま
【写真】左側の銭湯のあった場所は、今は更地でフェンスに囲まれている。 |
<05年> 高橋幹弥さん(神戸大・工・当時一年)が亡くなった木造二階建だったサニーハイムは現在、名前の違うマンションになっている。近所に住む池田眞佐子さんと道明さん親子は、当時の様子を「サニーハイムの建物自体は残っていたんですが、横の銭湯の煙突が倒れて(高橋さんの住んでいた)そこだけがスポーンと崩れていました」と振り返った。高橋さんは二階に住んでおり、その下に住んでいた方は出張中で助かったという。地区の建物もほとんど崩れてしまい、残ったのは三軒だけ。現在はワンルームマンションが増えている。毎年1月17日の朝にサニーハイム跡でお参りしているという眞佐子さんは、震災から10年を迎えることについて「一生忘れることはできないが、そういうことを背負っていることに慣れていくんでしょう」と語った。 <97年> 高橋幹弥さん(神戸大・工・当時一年)が住んでいたのは、神戸市東灘区住吉南町のサニーハイム2階J号室で、木造二階建てだった。現在は九十六年秋にできたばかりの、名前も変わったマンションが建っている。 「マンション自体は大丈夫だったんです」と、近所に住む山田茂さんは当時を振り返った。「ただ隣の銭湯の高さ二十メートルほどもある煙突が、二階の高橋君の家に倒れてしまって。運が悪いというのにはあまりにむごいことで、ご両親も悔やみ切れないようでした。煙突の処理はむずかしく、何カ月も残ったままでした」。 |
学生住まぬマンションに
吉岡文化(神戸市灘区神前町1−1−25)
【05年写真】4階建てのマンションに 【97年写真】吉岡文化の跡地は建設工事中だった。 |
<05年> 後藤大輔さん(神戸大・済・当時二年)が亡くなった吉岡文化は木造2階建てで地震で2階が1階を押しつぶして倒壊した。97年はマンションの建設が始まったばかりの状態だったが現在は完成し、4階建ての家族向けマンションになっている。 <97年> 後藤大輔さん(神戸大・済・当時二年)が住んでいた灘区神前町の吉岡文化は木造二階建てで、地震で二階が一階になった。 当時、吉岡文化が崩れ、瓦礫が道路にはみ出て通れなかったという。 現在、吉岡文化のあった場所は工事中で、道路を挟んだ向は駐車場になっていた。 |
新築の住宅が建つ
安田文化住宅(神戸市灘区将軍通1−3)
【05年写真】2軒の個人宅に 【97年写真】現在緑が繁っている場所が、林さんの部屋だった。 |
<05年> 灘区将軍通の林宏典さん(済・2年)が亡くなった安田文化住宅の跡には現在、個人宅が2軒並んでいる。両方3階建て。狭い路地は変わらず、もともとは長屋だったところを震災後に業者が買い取り、このような住宅となった。「後から移って来たからわからない」と現在の住民。 <97年> 林宏典さん(神戸大・済・当時二年)被災し、亡くなったのは木造二階建てのアパートで、地震で二階が一階になり、柱の下敷きになり即死だった。日頃からよく話をしていた下田孝利さん(53・自営業)に当時の状況を聞いた。 「林君は本当にいい子でしたねぇ。最近どろぼうがよく入ると言っていたので、十六日の夜も玄関近くの柱の側で寝ていたようです。そのために柱の下敷きになったんですよね。」 安田文化のあった場所は更地となっている。 |
学生の受け入れも再開
川原アパート(神戸市灘区篠原南町1−6−12)
【写真上】被災で倒壊した川原アパート。(95年2月上旬撮影) |
<05年> 灘区篠原南町にある桝富浩二さん(自然科学研究科博士前期課程・1年)が被災した川原アパート。97年当時は跡地には新しいアパートが建てられていた。しかしこれまでのように学生は入れず、1階にある工場の関係の人だけが入居していた。 しかし空室になったため、3年ほど前からまた下宿をはじめた。現在では神戸大生3人ほどが入居しているという。 <97年> 桝富浩二さん(神戸大・自然科学研究科博士前期課程・当時一年)が被災した川原アパートは木造モルタル二階建てで、北側半分が崩れ落ちた。 南隣に住んでいた栄根はまえさん(68)は当時はがれきに埋もれながらも手を出して必死に助けを求め、足をいためながらも助け出された。 「私も助け出されてから『桝富さあん、桝富さあん』言うてまして。前の日に結婚式行ってはったからグッスリ眠ってたんちゃうかなあ。崩れ落ちた方(北側部分)に桝富さんが寝てまして。全然声がないんで、でも全部(畳や床を)めくってしもて、それからやないと助け出されへんので、さんざん神大生の方や自衛隊の方にもやっていただいたのですが……中にいてはるいうことが完全にわかってたらもう少し早くできたんでしょうけど……」。桝富さんの遺体は、前の空き地に運びだされ、そこに、親御さんが山口から駆けつけた。「苦しまずに亡くなったのなら」と自分に言い聞かせるお父さん、どの服をなきがらに着せようかと迷っていたお母さんの姿が目に焼きついているという。 混声合唱団アポロンに所属していた桝富さんは友達も多かったという。「音楽の友達とも騒がしくしてましたし、お父さんやお母さんが時々お見えになっても『友達の方がいい』って言ってたみたいですし」「当時は、ぼうっとして手をあわせてましたね」。 栄根さんは桝富さんを子供のようにかわいがっていたという。「きちっとあいさつもして、心安く、よく気がついていい方でした。『あの子は困った』っていうのは一つもなかったですね。桝富さんのことが今も頭から離れられなくって、私らが助かってあんな若い子がなくなったらね……でも私もみんなに助けられて生きております」。 跡地には新しいアパートが建てられているが、これまでのように新たに学生は入れず、仕事の関係の人だけが入れるという。栄根さんは桝富さんが当時住んでいたところのちょうど上くらいのところの二階に今暮らしている。近くには銭湯もあるが、壁にひびが入りながらも現在修復された状態で営業している。 |
復興のための受皿マンションに
安田文化(神戸市灘区六甲町5−7−18)
【05年写真】新しいマンションに 【97年写真】当時は倒壊した家梁が隣の家にまで及んでいたという。 |
<05年> 区画整理で個人宅になった西尾荘跡と違い、区画全体がマンションとなった場合もある。櫻井英二さん(神戸大・法・4年)が被災した安田文化跡はあった。櫻井さんは木造の2階部分が1階になって亡くなった。 現在は8階建ての受皿住宅の一部分だ。隣には新設された幅員17メートルの六甲町線が山手幹線から南に延びている。新道は延焼防止帯、避難路として設計され、南に歩くと避難所となる灘小学校に直結。歩道には人工の「せせらぎ」が流れている。入り組んだ路地は姿を消した。 97年当時、神戸市が買い取ってフェンスをかけていた。当時近所の住民は「持ち主も区画整理のため再利用のめどが立たず、手放さざるをえなかったんでしょうね」と話していた。 <97年> 櫻井英二さん(神戸大・法・当時四年)が被災した灘区六甲町の安田文化住宅の跡地は現在、神戸市が買い取ってフェンスをかけてある。隣のアパートに住む安田勇さん(50・市職員)に話を聞いた。 「築三十年程の木造二階建てでした。バイクが無かったので、いないと思ったんですが……。持ち主も区画整理のため再利用のめどが立たず、手放さざるをえなかったんでしょうね。」 遺族の方が時々、花を供えに来るという小さな鉢が一つ、隅に寂しく置かれていた。 |
「生きてれば今頃30過ぎ。立派になっていたやろうに」
西尾荘(神戸市灘区六甲町2−4−5)
【05年写真】跡地は新しい住宅地に
【写真上】「西尾荘」の看板だけが残されていた。(95年3月18日撮影) |
<05年> JR六甲道駅から北へ5分。商店街から路地に入ると区画整理の終わった真新しい住宅地になっている。 中村公治さん(神戸大・営・3年)と坂本竜一さん(工・3年)と鈴木伸弘さん(工・3年)が亡くなった西尾荘もこの地区にあった。区画整理で地番も変わり、跡地の正確な場所は今はわからない。 西尾荘は木造2階建てで北側に住んでいた3人が瓦礫で埋まっていた。他の学生が助け出そうとしたという。しかし、近所から出た火が強風に煽られ西尾荘も延焼。近所の薮田洋子さんは「見殺しやった、辛かったろう。ほんとにかわいそう」と当時の様子を話してくれた。区画整理が始まるまで、跡地に薮田さんらが仮住まいアパートを建設。その一角に薮田さんは毎日朝晩お茶とお花とを供えてきた。遺族らも訪れていたというが今はない。薮田さんはわずかに残る旧道から「この延長線上にあったと思うねえ」と場所を教えてくれた。そして「亡くなった3人とも本当にいい人でした。生きてれば今頃30過ぎ。立派になっていたやろうに」と声をつまらせた。「忘れんように時々、名前を呼んであげてるねん」。 <97年> 中村公治さん(神戸大・営・当時三年)と坂本竜一さん(工・当時三年)と鈴木伸弘さん(工・当時三年)の三人が亡くなった西尾荘は現在は更地で、一部は事業用の仮設アパートとなっている。当時から隣りに住んでいた薮田洋子さん(64・無職)に当時の状況を聞いた。 「西尾荘は二棟あって、奥の棟の三人が亡くなったんです。表の棟に住んでいた人は外に出やすくて助かったみたいです。亡くなった三人ともアパートが潰れた時にはまだ意識があったんですよ。下半身が瓦礫に埋まってたんです。だから、助けに来ていた学生らも『のこぎりどこやー』って言いながら走りまわっていました。でも三十分程すると火がどんどんまわってきて、学生も助けようとしていたんですが、助けることができませんでした。明るかったら助かっていたでしょうね。地震直後は塀が倒れて、電柱もぶらさがったりしていたんで、歩くのも恐い状態で、ここにはもう家は建たないだろうと思っていました。」 「亡くなった三人とも本当にいい人で、ここに立つだけで涙が出てきます。今も朝晩だけでも私が飲む前に熱いお茶をあげて、『今日は寒いね』とか話かけているんですよ。みなさんもときどき名前を呼んであげてください。三人のことを絶対に忘れないでください。」 長い間わきに立て掛けてあった「西尾荘」の看板は、今はもうなかった。 |
跡地は変わらぬ駐車場
杉本文化(神戸市灘区六甲町2−6−19)
【05年写真】跡地は駐車場のまま 【97年写真】杉本文化で亡くなったのは、競さんだけだった。 |
<05年> 競基弘さん(神戸大・自然科学研究科博士前期課程・当時一年)が被災した杉本文化跡は、97年から現在まで駐車場になっている。周囲は区画整理が続き、8年前と変わらないのはこの周囲ぐらいだ。 <97年> 競基弘さん(神戸大・自然科学研究科博士前期課程・当時一年)が被災した杉本文化は木造二階建てのアパートだった。隣のアパートに住む西尾さんは当時の状況を語ってくれた。 「火事が近くまでせまっていたんですが、ちょうど手前で止まったんです。でも杉本文化は地震で二階が一階になり、競さんはその間に挟まれ圧死だったそうです。三日目でも、まだ埋まったままだったようですねぇ。一昨年の八月からは駐車場となりそれ以来は慰霊に来る人はあまり見かけませんね」。 杉本文化で亡くなったのは競さんのみだった。 |
唯一の更地、放置バイクが今も草影に
岩田文化(神戸市灘区備後町2−3−5)
【05年写真】被災下宿中、唯一の更地 【97年写真】大家さんは「アパートを建てる決心がまだつかない」という。 |
<05年> JR六甲道駅から徒歩5分。真新しい住宅が立ち並ぶ一角に時間が止まったままの場所がある。磯部純子さん(神戸大・教育・4年)、歯朶原孝さん(理・3年)、梶達雄さん(理・2年)、細井里美さん(農・2年)が圧死した岩田文化の跡地。土台が残り、隅ではバイクが朽ち果てていた。変わったといえば、敷地が雑草に覆われたぐらいだ。 しかし周囲は確実に変わっていく。97年は建設中だった隣の住宅も完成。そのせいか更地の岩田文化跡が一層際立つ。家主の岩田陽二郎さんは97年当時「アパートを建てる予定ですが、なかなか決心がつかないんです」と話していた。今回、岩田さんの妻は「いろいろ考えてしまって遅くなった」と理由をぽつぽつと話してくれた。 <97年> 灘区備後町の岩田文化は、JR六甲道駅の南側の激震地で、被害は大きかった。 磯部純子さん(神戸大・教育・当時四年)、歯朶原孝さん(理・当時三年)、梶達雄さん(理・当時二年)、細井里美さん(農・当時二年)の四人が被災。歯朶原さんは陸上部の副主将。細井さんは茶華道部、ユースサイクリング部に所属していた。 木造二階建てで十五軒あったが、四人とも一階に住んでいたため、地震で二階が一階を押し潰し、圧死した。 歯朶原さんの父・謙三さんによると、着のみきのままで現場に駆けつけたとき、余震の続く中、友達の手で必死の救出活動が続けられていたという。当日五時すぎには、遺体を引き出すことができた。 現在は、更地に枯れ草が生え、放置されたバイクが。野ざらしのタイルの床は玄関の跡か。隣近所では新築工事が進む。 家主の岩田陽二郎さん(56)は、「築二十六年か二十七年の建物でしたからねぇ。当日は神大生が助けに来ていました。そして、二日目になって機動隊の方が遺体を出していました」「あの土地にはワンルームのアパートを建てる予定ですが、なかなか決心がつかないんですよ」と語る。
【磯部純子さんへの追悼手記】
【歯朶原 孝さんへの追悼手記】 |
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