【写真05年】現在は駐車場がある。 【写真左】ニュー六甲ビラ跡地には上野さんの父が建てたほこらがあった。 |
<05年> 灘区琵琶町のニュー六甲ビラで被災し亡くなったのは101号室の上野志乃さん(神戸大・発達・当時2年)と上野さんのアパートにレポート作成のために泊まりに来ていた川村陽子さん(同)、そして106号室の呉ショウさん(営・当時2年)の3人。現場は関西スーパーのすぐ傍。 木造2階建ては地震で崩れ落ち、「1階部分は30cm」ほどしかなかったという。上野さんと川村さんは2日目に発見された。志乃さんの父、上野政志さんは「避難しているとばっかり思っていたので見せつけられているようだった」と当時の無力感を話してくれた。「あの子らは何も教えてくれないまま、(人生という)カンバスに何も描くことなく逝ってしまった」。 96年5月から駐車場となったが、その傍らには政志さんが作った小さな記念碑、通称「箱」がある。 政志さんは、毎月月命日の17日前後に「箱」を訪れ、志乃さんに声をかける。「月に1度は娘と共有する時間があっていい」と10年間ほとんど欠かすことなく続けてきた。「箱」の前の花は絶えることはない。訪れた12月18日にもバラの花が添えられていた。「誰だが分からないがありがたいことです」と上野さん。 10年経ったが「死ぬまで悲嘆から解放されることはないし、人は人の心から忘れられた時に死が訪れると思うんです」と想いは変わらない。しかし、再開発されたJR六甲道周辺を見るにつけ「娘は記憶の中にしかない。だから周囲がにぎやかになるほどつらい。」という。「こうやって碑があって名が刻まれて、娘の名前は残るんですね。でも、やっぱり生きていて欲しかった」。 <97年> 灘区琵琶町のニュー六甲ビラで被災し亡くなったのは101号室の上野志乃さん(神戸大・発達・当時二年)と上野さんのアパートにレポート作成のために泊まりに来ていた川村陽子さん(同)、そして106号室の呉ショウさん(営・当時二年)の三人。 九十六年五月から駐車場となったが、その傍らには木でできたほこらのような、小さな記念碑がある。 建てたのは、志乃さんの父、上野政志さん。三人の名札と、花と、訪れる度に書いた志乃さん宛の手紙が置かれている。 「暑い夏がやってきたねぇ。志乃達はどこで何をしているのだろうか知りたい。95年7月24日 政志」「……更地に夏草。無念の思いはつきない。今どうしている?返事が欲しい。95年8月25日 父」「六甲道駅も、周囲の様子も、忘れたかのような日常があり、ますます孤立感が深まります。3人で何を話し合っているのでしょうか。紅葉の秋。赤西渓谷にでも言ってみたかったなあと、ふと思います 95.11.18 父」 「……絶対忘れることはない。だからここに来る。過去に固執するのではなく、……過去を忘れるものは再び誤ちを繰り返す。……96.1.27 父」「JR六甲道の向こうに沈む夕日が美しいよ。……日はドンドン過ぎていくのに心がそのまま置きざりになっていくのが淋しくもあるよ。どうしているね。3人いっしょかな。1996.2.10 父」
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8年前と変わらず 駐車場のまま
清重文化住宅(神戸市灘区下河原通1−3−12)
【写真05年】跡地は現在も駐車場のまま
【写真上】被災数週間後 |
<05年> 清重文化住宅では、長尾信二さん(神戸大・工・当時二年)が被災した。同住宅は全壊し、震災後は駐車場として利用されてきた。現在に至るまで周辺の区画整備は行われておらず、今もその土地は駐車場のままである。 <97年> 長尾信二さん(神戸大・工・当時二年)の被災した清重文化について、向かいに住んでいる森崎絹子さん(56)に話をうかがった。 「長尾さんはベッドに寝ていてそのまま亡くなったそうです。顔の方が玄関を向いていて、重たいものが落ちてきたそうです。学生も十人くらい清重文化に集まって来て瓦礫をどけていたんですが、結局、長尾さんの遺体は自衛隊の手で出されました。このアパートでは三人の方が亡くなられたんですよ。長尾さんの母は清重文化に息子さんを住ませることを嫌がっていたそうでねぇ。だから震災後はとても悔やんでいました。」。 話を聞き終わり、後ろを振り返ると駐車場が広がっている。九十五年の秋には駐車場になっていた。ここに二十五年以上前の清重文化があったとは思えなかった。 |
隣の公園で毎年追悼集会が
盛華園アパート(神戸市灘区友田町1−1−10)
【写真上】高見さんは2階の自室で被災した。(95年3月21日撮影) |
<05年> 国道2号線のさらに南、阪神電鉄の高架のほど近くに高見秀樹さん(神戸大・済・当時三年)が被災した木造2階建ての盛華園アパートはあった。この地区は戦災で焼け残ったため古い住宅が多かったという。 盛華園アパートは6畳と3畳、押し入れキッチンがあるいわゆる「下宿」だった。 震災以降、1月17日の朝には遺族の方と高見さんが所属していた応援団の関係者らが近くの下宿横の「ともだ公園」に集まり、祈りの捧げている。 現在は97年に建て替えられた同名の4階建てマンションが建つ。マンションの一角には地蔵がある。「盛華園アパートがこの地蔵の屋根に支えられて完全に倒れずに済んだように見えた」(大家さんの光國英宣さん)ので感謝の気持ちをこめて一角に設置したという。 現在のマンションには学生専用ではないが神大生も住んでいるという。 <97年> 高見秀樹さん(神戸大・済・当時三年)が被災したのは木造二階建ての盛華園アパート。三十年ほど前に建てられたもので、当初は学生用ではなかったが、二十年ほど前からほとんど神戸大生が借りるようになった。 家主の光国さんの家の前にはお地蔵さんが置いてある。震災前はアパートの辺りにあったものを移してきたという。光国さんも家が全壊し、新しく家を建てたばかり。妻の美和子さんは当時の状況を克明に記憶している。 「あの方はよく飲まれてたからね。応援団の団長やから飲む機会も多かったんでしょうね。顔会わすのも少なかったし、あの時もいないと思ってました。声ある人から助けていったんですけど、バイクがあるし、やっぱり気になるから……圧死でした。一瞬のあれだったと思います、全く反応なかったからね。あの時はたぶんのんでグッスリねてたんでしょうね」。 「礼儀も正しいし、子供みたいでかわいらしかったです。(盛華園アパートに)入ってる人にも友達が多くって、夜にぎやかに徹夜でマージャンしてて、うちのおばあちゃんが近所に迷惑になるからって注意しに行ったんですけど、素直に聞いてくれて」。 「でも、応援団はうちのアパートの中では高見くんだけだったと思います。学ラン着て暑いのにがんばってねえ。応援団の方も来られたけど、ほんと一生懸命に『いてはると思う』言いながら必死でした。私はいてないと信じてたけどね。気の毒やったわね」。 現在は新しく四階建てのマンションが建っている。これも光国さんが建てたものだ。「はよ建てんことにはね、更地にしておくのもね。まず(自分の)家建てて、それからこっちもね」。新しいマンションの名前も『盛華園』とした。一月十五日から本格的に入居が始まるが、今度も大部分が神戸大生。しかし震災後入ってきた現二年生が大半だ。「やっぱり私たちも気持ちを切りかえんとね。若い人見てるとやっぱりいいわよね」と光国さんの顔には笑みがこぼれていた。」 |
駐車場からマンションに
村上文化住宅(神戸市灘区友田町4−1−19)
【写真05年】跡地には新しいマンションが 【写真】4棟あった村上文化跡は駐車場になっていた。 |
<05年> 村上文化住宅では二宮健太郎さん(神戸大・法・当時二年)が被災した。震災後しばらくは駐車場にされていたが、2年ほど前に新たにマンションが建てられた。同じ通りには新しいマンションが立ち並び、震災以前からの家屋が並ぶ向かいの通りとは対照的だった。 <97年> 二宮健太郎さん(神戸大・法・当時二年)が被災したのは木造二階建ての村上文化住宅。一階と二階それぞれ二棟ずつの四棟で、二階に住んでいた。 向かいに住んでいた中島澄子さんは被災して一週間は大久保の実家にいた。 「即死だったと思います。『助けて』の声もなくってね。バイトで夜が遅かったし、近所の人もどんな人か知らなかったので逃げたんと違うかなあと思ってました。二階が倒れこむ感じで、下のおばあさんは助けれたんですけどね。お友達の方も訪ねてこられてたんですが」。 「今となったらうそみたいですね。テレビとかみたらねえ、思いだすんやけど。すぎてしもたら仕方ないんかねえ」。 倒壊後、三月にがれきが取り除かれた後はしばらく野放図の状態だった。現在は駐車場となっており、無造作に工事用の機材がおかれている。 |
駐車場のままに
岩木文化(神戸市灘区記田町5−5−4)
【05年写真】駐車場のまま。花壇も残っている 【97年写真】戸梶さんのために「お花でも植えとこうと思って…」と大家さん(中央奥) |
<05年> 岩木文化住宅では、戸梶道夫さん(神戸大・営・当時二年)が被災した。同住宅のあった土地は住宅街の一角に位置し、震災後は駐車場になっている。周囲は新しい住宅と震災以前からの建物が混在している。 <97年> 戸梶道夫さん(神戸大・営・当時二年)の亡くなった岩木文化住宅は木造二階建て。上下四件ずつ八件の部屋は当時満室状態で、戸梶さんは一階の一番南の部屋に住んでいた。 管理人の岩木正雄さんは元の家を修復して現在住んでいる。妻富美代さんは当時の戸梶さんの部屋のあたりで花を植え、水をやっている。 「返事しないからいないおもてました。ちょうど成人式のころやったから実家行ってはって、十六日の夜の十一時くらいに帰って来はったんやってね。親御さんが『もう一日泊まり』って言いはってんけど、学校で行事があるから言うて帰って来はったらしいね」。 「(戸梶さんの)隣の人は主人が『どないや?』って聞いたら『痛いから助けて』っていう声がかえってきて、それでなんとか助け出せたんですが。今阪大の院にいってはりますわ。でも戸梶さんは声もなくて、てっきりいない思ってたのに、お友達が『ゆうべ帰ってる』って言いはって、それで二階の(当時)留学に行ってた子の部屋から畳をはがして、床どけて、手が見えて……。一ミリでもすきまがほしいし、でも布団があつくて、切りにくくて……。しかもまた近くでガス漏れがしてたけど、なんとか出さないとねえ」。 岩木さんは命日になれば、当時の戸梶さんの部屋のあたりに花を供えている。口からはしきりに「かわいそうやったね」の声。「ほんまに死にに帰るようなもんやったね」。跡地は当分は空地のまま駐車場にしておくという。 |
2階が前へつんのめってきた
立花荘(神戸市灘区高徳町1−4−8)
【05年写真】現在は、駐車場に
【95年写真上】被災直後の立花荘。(95年1月18日撮影) |
<05年> 木造二階建ての立花荘は一階部分がつぶれ、二階が落 ちていた。東の端に住んでいた稲井さんは倒壊した建物の下か ら発見された。大家だった立花正二さんは「真面目な人だった 。震災の前日に医学部の近くに引っ越そうかなと言っていた。 あと一週間ずれていれば」と話した。 震災後3年ほどは酒屋の仮設店舗だった跡地は今、駐車場に なっている。「もう10年経ったかなという感じ。早かった」と 立花さんは語った。 <97年> 稲井健太郎さん(神戸大・医・当時四年)が被災した立花荘は南北に二棟あり、稲井さんは南側の棟の一階に住んでいた。当時は二階が一階に落ちてきた上に、北側の棟も崩れてきて、稲井さんは二重に下敷きになった。 立花荘の向かいに住んでいた武本典三さんはつい最近元の場所に新築の家を建て帰って来たばかりだ。当時は立花荘同様に全壊、道路がふさがったという。「道の先までぐわあっと(家が)流れてましてね、人が通るのにえらいことやった。一階はもうぺしゃんこで、二階も半分つぶれとったんちゃうかな。お父さんとお母さんが来はってね。2、3日のうちだったと思うよ。あともう二方来はったけど、気の毒でしたわ」。 酒店を当時から経営している立花正二さん(68)は当時の大家さん。「二階がドーンと前へつんのめってきて、後ろからもかぶってきてて。僕は逃げ出すんで精一杯でした。当日死にはったんでしょうな、僕がわかったのは明くる日の夕方ですわ」。 「学生さんは生活のリズムが私らと違うから家賃払う時に二言三言話すだけで、あんまり話ししないんですが、ちょうどその頃は、四月、いや今月いっぱいでここ出て大倉山の方へ宿借りる言うてましたのに。いやあ、人の運命なんてわからんもんですねえ」。 現在は酒店を当時の立花荘の場所に移している。空いたところはバラックの小屋が1つあり、あとは更地になっている。今のところ新たにアパートを建てる予定はないという。 |
「まだまだ復興はしていない」 周囲に更地多く
東神荘(神戸市灘区神ノ木通3−4−2)
【05年写真】現在は工務店に
【97年写真】隣に住む大倉さんによると、遺族の方が何度か見えたという
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<05年> 木造二階建の東神荘があった場所には5、6年前から工務店が建っている。近所でクリーニング屋を営む木戸百合子さんによると、震災当時、東神荘は一階が崩れて二階部分が下に落ちていたという。 「この辺の建物は全部屋根が下につくぐらい倒れていました。亡くなったのは中国の方で、二階に住んでいたということは知っています。10日程してからご家族がいらっしゃっていたと聞きました」。 震災前は多かった学生も今はほとんどおらず、ガレージが増えている。木戸さんは10年目を迎えることについて「まだまだ復興はしていないと感じています。通りから東はまだいっぱい空き地があるし」と話した。 <97年> 傅建鴻さん(神戸大・工学部留学生)が被災した灘区神ノ木通にある東神荘は、木造二階建ての文化住宅だった。当時から隣に住んでいた大倉さんは「あそこは完全にぐちゃぐちゃになってしまっていました。何人かが担架で運ばれるのが見えました。遺族の方だと思うんですが、何度か来ていたようです。」と話してくれた。 跡地はがれきを撤去してから全く手をつけていない様子だった。 |
うめき声がして…近くの人が救助に向かった
斉木荘(神戸市灘区徳井町4−3−7)
【写真05年】跡地は現在も駐車場のまま 【写真左】斉木荘跡には三階建ての新しいマンションが建っていた。 |
<05年> 灘区徳井町の斉木荘では、母志斌さん(自然科学研究科博士課程・当時一年)が被災した。木造二階建ての斉木荘は完全倒壊し、隣接する道路を塞いだ。現在、跡地にはフローラル六甲というマンションが建っている。周囲は新築の家が比較的多く建ち並ぶ住宅街になっている。 <97年> 灘区徳井町の母志斌さん(も・しびん=神戸大・当時自然科学研究科博士前期課程)が被災した斉木荘は木造二階建てで、昭和四十八年に完成。昭和五十五年ごろ改装したという。入居者は独身男性が多かった。 近所のだばこ店の店主は、「激震で完全に倒壊、道もふさがるといった状態だった。うめき声がして近くの人が救助に向かった」という。 隣の大家さんの一家は大阪に転居したという話を聞き、電話をかけたところ、「母は亡くなりました。家は全壊でした」という返事がかえってきた。大家さんの斉木花子さん(当時84)も地震で亡くなったという。 去年三月末に三階建てのワンルームマンション『フローラル六甲』が建った。学生も入居しているという。 |
「もし、あのとき倒壊した建物が木造でなかったら…」 跡地に鉄筋学生マンションを建設
浜吉文化住宅(神戸市灘区中郷町3−1−22〜24)
【05年写真】跡地に建つ新しい学生下宿 【97年写真】ここには鉄筋の住宅が建築される。 |
<05年> 浜吉文化住宅は、国道2号線の徳井交差点からおよそ百メートル北の角地に建っていた。95年1月当時、文化住宅には神戸大の学生10人と社会人3人が入居していた。激震で木造2階建てのアパートは全壊し、1階に住んでいた清水倫行さん(工・当時四年)と橋本健吾さん(医・当時一年)が命を落とした。 文化住宅が建っていた中郷町では、火災による建物の被害は少なかったものの、地震によってほとんどの建物が倒壊した。近所で商店を営む女性によると「この辺りの家が全部倒れて(文化住宅から百メートル先の)国道が見えたほど」だったという。 大家の浜吉弘敏さん(77)は地震の直後、すぐに自宅から車で現場に駆けつけた。倒壊した建物が道路を塞ぎ、狭い路地には入ることができなかったという。「2階が1階になっていた自分のアパートを見たとき、ベッドが浮き上がるような衝撃を受けました」と話す。 入居していた学生が何人か行方不明と知り、すぐさま家族と一緒に瓦礫の下を掘り始めた。道具もなく、手で掘った。「(行方不明の学生を)なかなか探し出せず、空しさを感じましたよ。ただ生きていることを願いながら、思い当たる場所を掘っていきました」 18日の昼過ぎまでに、二人は発見された。「遺体を引き出したときなどはもう…いたたまれなかったです。せっかく学生のためにと思って下宿を始めたのに、それがこんなことになるなんて…。あんな思いは二度と経験したくない」と、慎重に言葉を選びながら語る。 毎年1月17日は、「希望の灯り」などが設置されている、慰霊と復興のモニュメントを訪れ、神戸市が開く追悼会に参加している。「自分の下宿で入居者が亡くなれば、自責の念にとらわれない人はまずいない。私たちは、死ぬまでこの重荷を背負うことになります」 「もし、あのとき倒壊した建物が木造でなかったら、あるいは…」と浜吉さんは悔やみ続ける。何としても安心できる住居を学生に提供したい、との思いから97年に都市住宅整備公団に相談し、跡地に耐震性を高めたアパートを新しく建てることになった。 99年2月、跡地に鉄筋3階建ての「学生の家 らかん六甲」が完成。入居者は全て神戸大の学生だ。「らかん」は釈迦の弟子、羅漢に由来する。浜吉さんの被災者への供養の気持ちが込められている。 らかん六甲では年2回、食事会が開かれる。万一の事態に備え、学生同士の連絡体勢をより一層高めるためだ。さらに、この食事会を通じて親密な人間関係を作ってもらい、自分の将来を切り開くささやかな協力ができれば、と浜吉さんは考えている。 <97年> 灘区中郷町の浜吉文化住宅では、清水倫行さん(神戸大・工・当時四年)、橋本健吾さん(医・当時一年)の二人が亡くなった。浜吉正章さん(66・無職)は、その日のうちに救助のため、駆けつけたという。 「清水さんは四年生でずっとうちにいたし、橋本さんはケガをしたときに、私が病院へ連れて行ったことがあったので、お二人ともよく知っていました。自動のこぎりで柱を切ったり、二階を剥がしたりして必死で救出にあたりましたが、なかなか思うように進みませんでした。犠牲者を出してしまったことが残念でなりません。あそこには新しく神大生のために鉄筋の住宅を作りたいと思います。 |
敷地は切り売り 如来は移転
大日荘(神戸市灘区桜ヶ丘6−10)
【05年写真】大日荘跡は個人宅に 【97年写真】ほこらの向こうの大日荘跡は、空き地のまま。 |
<05年> 区画整理が行われなかった地域では敷地の切り売り後、個人宅になる場合が多い。地権の問題で再建が遅れる場合もある。篠塚真さん(理・2年)が被災した大日荘もその一つ。以前、桜ヶ丘の自治会長をしていた大谷さんによると「大日荘の土地と通路の土地の持ち主が違ったから土地の売却に時間がかかった」が、現在は数軒の建売住宅になっている。震災から2年目の時にまだ更地で、大日如来のほこらだけが残っていた。 その大日如来は移され、灘区高徳町にある浄土宗慶光寺、北向地蔵尊にある。 <97年> 篠塚真さん(神戸大・理・当時二年)が被災した大日荘は木造二階建てのアパートだった。二階が一階になり、篠塚さんはその間に挟まれて亡くなった。大日荘では他にも一人が亡くなっており、当時の悲惨さを窺わせる。その当時の状況を大谷さん(63歳・桜ヶ丘自治会長)に聞いた。 「大日荘ではその日はパニックでした。五、六人の神戸大生が救助に来ていたのを覚えています。篠塚さんの友達も来てて助けてましたが、篠塚さんが救出された時はすでに亡くなっていました。私も三回消防署に行って大日荘に来てくれるように頼んだんですが、順番だからと言って断られました。大日荘では、最後に出された方は十七日の午後四時までかかったんです。私は他の所も回らなければならなかったので、大日荘は学生さんにまかせました。大日荘では神戸大生が中心になってやってくれてました。」 現在、大日荘があった場所は更地となって、大日如来だけが残っている。 |
大家さんの親類の自宅に
石本文化(芦屋市三条南町3−7)
【05年写真】大家の親族の家が建つ。 【97年写真】空き地となった石本文化跡。97年4月撮影。後ろに見えるのはJR神戸線の架線の鉄柱。 |
<05年> 廣瀬由香さん(神戸大・法・当時四年)が亡くなった石本文化のあった場所は、JRの線路沿いにある。現在石本文化の大家だったかたの親族の家が建っている。竣工は97年8月。周囲は新しいアパートや住宅が立ち並ぶ一方、空き地も残っている。 <97年> 廣瀬由香さん(神戸大・法・当時四年)が被災したのは木造二階建てのアパート。外壁はトタンでできているところもあった。当時、JRの線路は『く』の字型に曲がり、また阪神高速が五百メートルにわたって陥落した場所もすぐ近くにある。 山本東淳さん(61)は廣瀬さんが住んでいたアパートの隣の一戸建住宅に住んでいた。現在は改修工事も終わり、もとの家に住んでいる。改修にはほぼ一軒建てるのと同じくらいの費用がかかったという。「もともと国道二号線の近くは古い建物が多かったからね。」「横揺れが少しあって、縦にグワングワンと揺れて、下からは押し上げ上からは物が落ちてきた感じやった。ちょうど活断層の中心部やったんかも知れんね。」「自衛隊の人がすぐ来てくれはって救出活動したんやけど、遺体がふとんにくるまって転がってて…無残なもんですわ。死者がどんだけあったかわけわからん状態でねえ。今になって行政とかで〇〇の想定なんていってるけど本番になったらどれだけ活かせるものか。トランジスタのラジオ持ってても肝心の中心地の震度もなかなかわからないしねえ。とにかくひどいもんですわ、言葉ではよう言い表せんなあ」。 アパートのあった所のすぐ近くでは去年秋にJR甲南山手駅が新設された。跡地は現在更地になっている。(訂正=誤って隣接する土地の写真が掲載されていました。ご家族から申し出がありましたので、提供された写真に差し替えます。1997年11月2日編集部入力) |
「震災当時のお話も語り継いでいますよ」
マンションN(西宮市安井町5−20)
【05年写真】複数の住宅に
【写真上】震災当日のマンションN(写真=共同通信 95年1月17日撮影) |
<05年> 西宮市安井町、加藤貴光さん(法・当時2年)が被災したマンションN。加藤さんは1階の奥から2件目の部屋で亡くなったという。マンションNがあった場所には、昨年から8件の住宅が建っている。「一昨年までは毎年お友達がお花を供えに来てはったけど、工事が始まってからはもう来られてないみたいですね」と隣に住んでいた山上多津子さんは話す。 震災当時を知る住民も半数近くに減っている。そのため「新しく来た方がなじめるように、安井町では毎月第4火曜日に会を開いています。震災当時のお話も語り継いでいますよ」。 <97年> 加藤貴光さん(神戸大・法・当時二年)が被災したマンションNは鉄骨の五階建てで、一階は当時ガレージだった。三階まではぺしゃんこの状態で、四階が一階の位置に来ていた。二階の加藤さんは即死だったという。 隣の一戸建て住宅に住んでいた山上多津子さん(57)は当時マンションNが自分の家の二十センチ手前まで来ていたという。「ドア開けたら四階の人と顔が会うた感じでした。三階以下は見えなかったね。前から危ないという話は言うててんけどねえ。北側に向けて倒れてきてんけど、マンションの部屋の中も坂になってて、南側にはい上がったって(住んでいた人が)言うてはりましたわ」。「残念やったね。男の子やったね。顔は知らないけど、お父さんと一緒に住んではって、その時は出張で一人やったって聞いてます。あとで女の子が来て泣いてらしたわ。今もときどき学生さんが来られるんやけどねえ」。 現在は更地になっているが、フェンスの所には『マンションN』の看板がそのまま残っている。新しくマンションが建つかどうかはまだわからないという。 |
「まだ心の整理がついていないので…」
増田荘(西宮市中殿町6−30)
【05年写真】個人宅に
【97写真】増田荘の跡は空き地になったまま。
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<05年> 西宮市中殿町で曹センさん(農学研究科)が被災した増田荘。増田荘では曹さんを含む二人が亡くなった。大家さんだった増田さんも亡くなっている。8年前は更地だったが現在は、増田さん家族の家が建っており、震災の面影はない。しかし、「まだ心の整理がついていないので(当時のことを)話しはできません」と増田さんの遺族の女性は口をつぐむ。 <97年> 曹センさん(神戸大・農学研究科)が被災した西宮市中殿町6−30の増田荘は現在、更地となっている。木造二階建てだった増田荘は、地震で二階が一階になり、曹さんを含む二人が亡くなった。 当時から増田荘の向に住む松本美富さん(52)に十七日を振り返ってもらった。 「私の息子も増田荘に向かわせましたし、増田荘では、その日の内に救助されていました。でも、大家の増田さんも亡くなられてねぇ。本当に辺りは悲惨な状況でした。」 増田荘があった場所は現在、市の土地になっている。 |
一部駐車場に
井上純一方(神戸市東灘区西平野字平野8)
【05年写真】個人宅に
【写真上】住んでいた1階はすべて押しつぶされていた。(95年6月撮影 今英男さん提供) |
<05年> 阪急御影駅から徒歩15分。東灘区西平野字では今英人さん(自然科学研究科博士前期課程・1年)が被災した。跡地は閑静な住宅街にある。現在、井上純一さんの土地は一部が駐車場などに利用されている。 <97年> 今英人さん(神戸大・自然科学研究家博士前期課程・当時一年)が被災した井上純一さん(62歳)の家の一部は、現在駐車場となっている。当時、今さんは木造二階建ての一階に住んでいたため、地震で二階が一階になり、圧死した。住んでいたのは学生二人で、今さんが亡くなった。 九十六年一月、一部に駐車場ができ、井上さんの家も新しく建て変わっていた。 だが、井上さんの家の門はそのままだった。 |
住宅一棟と柔道教室に
上原肇方(神戸市東灘区御影石町4−19−12)
【05年写真】跡地は個人宅と柔道教室に 【97年写真】藤原さんは、3日目に瓦礫の下から出された。 |
<05年> 東灘区御影石町では、藤原信宏さん(経営・当時四年)が被災した。平成9年の取材当時、アパートの建て替えをするかどうかは未定だった。住宅地の中にある跡地には現在、一戸建て住宅一棟と柔道教室が建っている。道路を挟んで反対側にはJRが走り、駐車場として利用されている土地もあった。近くには石屋川が流れている。 <97年> 東灘区御影石町の上原肇方に住んでいた藤原信宏さん(神戸大・営・当時四年)が被災したのは木造二階建てのアパートだった。二階が一階になり、圧死だったという。当時の状況を近くで造園業を営む福山忠雄さん(55)に聞いた。 「今の学生には珍しく藤原君はよく勉強していてね、夜遅く帰ってきても机に向かって勉強していたのを知っています。」 「藤原君は、二日目にご両親が来て、まだ息子から連絡がないからということで、調べてみると埋まったまま亡くなっていたんです。机に向かって亡くなっていたそうです。」 現在、更地である。そして、そのすぐ横を電車が通っている。 |
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