【写真左】ニュー六甲ビラ跡地には上野さんの父が建てたほこらがあった。 |
灘区琵琶町のニュー六甲ビラで被災し亡くなったのは101号室の上野志乃さん(神戸大・発達・当時二年)と上野さんのアパートにレポート作成のために泊まりに来ていた川村陽子さん(同)、そして106号室の呉ショウさん(営・当時二年)の三人。 九十六年五月から駐車場となったが、その傍らには木でできたほこらのような、小さな記念碑がある。 建てたのは、志乃さんの父、上野政志さん。三人の名札と、花と、訪れる度に書いた志乃さん宛の手紙が置かれている。 「暑い夏がやってきたねぇ。志乃達はどこで何をしているのだろうか知りたい。95年7月24日 政志」「……更地に夏草。無念の思いはつきない。今どうしている?返事が欲しい。95年8月25日 父」「六甲道駅も、周囲の様子も、忘れたかのような日常があり、ますます孤立感が深まります。3人で何を話し合っているのでしょうか。紅葉の秋。赤西渓谷にでも言ってみたかったなあと、ふと思います 95.11.18 父」 「……絶対忘れることはない。だからここに来る。過去に固執するのではなく、……過去を忘れるものは再び誤ちを繰り返す。……96.1.27 父」「JR六甲道の向こうに沈む夕日が美しいよ。……日はドンドン過ぎていくのに心がそのまま置きざりになっていくのが淋しくもあるよ。どうしているね。3人いっしょかな。1996.2.10 父」
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瓦礫に遺品を探す母の姿
清重文化住宅(神戸市灘区下河原通1−3−12)
【写真上】被災数週間後 |
長尾信二さん(神戸大・工・当時二年)の被災した清重文化について、向かいに住んでいる森崎絹子さん(56)に話をうかがった。 「長尾さんはベッドに寝ていてそのまま亡くなったそうです。顔の方が玄関を向いていて、重たいものが落ちてきたそうです。学生も十人くらい清重文化に集まって来て瓦礫をどけていたんですが、結局、長尾さんの遺体は自衛隊の手で出されました。このアパートでは三人の方が亡くなられたんですよ。長尾さんの母は清重文化に息子さんを住ませることを嫌がっていたそうでねぇ。だから震災後はとても悔やんでいました。」。 話を聞き終わり、後ろを振り返ると駐車場が広がっている。九十五年の秋には駐車場になっていた。ここに二十五年以上前の清重文化があったとは思えなかった。 |
跡地に同じ名前の学生マンション
盛華園アパート(神戸市灘区友田町1−1−10)
【写真上】高見さんは2階の自室で被災した。(95年3月21日撮影) |
高見秀樹さん(神戸大・済・当時三年)が被災したのは木造二階建ての盛華園アパート。三十年ほど前に建てられたもので、当初は学生用ではなかったが、二十年ほど前からほとんど神戸大生が借りるようになった。 家主の光国さんの家の前にはお地蔵さんが置いてある。震災前はアパートの辺りにあったものを移してきたという。光国さんも家が全壊し、新しく家を建てたばかり。妻の美和子さんは当時の状況を克明に記憶している。 「あの方はよく飲まれてたからね。応援団の団長やから飲む機会も多かったんでしょうね。顔会わすのも少なかったし、あの時もいないと思ってました。声ある人から助けていったんですけど、バイクがあるし、やっぱり気になるから……圧死でした。一瞬のあれだったと思います、全く反応なかったからね。あの時はたぶんのんでグッスリねてたんでしょうね」。 「礼儀も正しいし、子供みたいでかわいらしかったです。(盛華園アパートに)入ってる人にも友達が多くって、夜にぎやかに徹夜でマージャンしてて、うちのおばあちゃんが近所に迷惑になるからって注意しに行ったんですけど、素直に聞いてくれて」。 「でも、応援団はうちのアパートの中では高見くんだけだったと思います。学ラン着て暑いのにがんばってねえ。応援団の方も来られたけど、ほんと一生懸命に『いてはると思う』言いながら必死でした。私はいてないと信じてたけどね。気の毒やったわね」。 現在は新しく四階建てのマンションが建っている。これも光国さんが建てたものだ。「はよ建てんことにはね、更地にしておくのもね。まず(自分の)家建てて、それからこっちもね」。新しいマンションの名前も『盛華園』とした。一月十五日から本格的に入居が始まるが、今度も大部分が神戸大生。しかし震災後入ってきた現二年生が大半だ。「やっぱり私たちも気持ちを切りかえんとね。若い人見てるとやっぱりいいわよね」と光国さんの顔には笑みがこぼれていた。」 |
4棟の跡地は建設会社の駐車場に
村上文化住宅(神戸市灘区友田町4−1−19)
【写真】4棟あった村上文化跡は駐車場になっていた。 |
二宮健太郎さん(神戸大・法・当時二年)が被災したのは木造二階建ての村上文化住宅。一階と二階それぞれ二棟ずつの四棟で、二階に住んでいた。 向かいに住んでいた中島澄子さんは被災して一週間は大久保の実家にいた。 「即死だったと思います。『助けて』の声もなくってね。バイトで夜が遅かったし、近所の人もどんな人か知らなかったので逃げたんと違うかなあと思ってました。二階が倒れこむ感じで、下のおばあさんは助けれたんですけどね。お友達の方も訪ねてこられてたんですが」。 「今となったらうそみたいですね。テレビとかみたらねえ、思いだすんやけど。すぎてしもたら仕方ないんかねえ」。 倒壊後、三月にがれきが取り除かれた後はしばらく野放図の状態だった。現在は駐車場となっており、無造作に工事用の機材がおかれている。 |
畳をはがして床をどけたら、手が見えて…
岩木文化(神戸市灘区記田町5−5−4)
【写真】戸梶さんのために「お花でも植えとこうと思って…」と大家さん(中央奥) |
戸梶道夫さん(神戸大・営・当時二年)の亡くなった岩木文化住宅は木造二階建て。上下四件ずつ八件の部屋は当時満室状態で、戸梶さんは一階の一番南の部屋に住んでいた。 管理人の岩木正雄さんは元の家を修復して現在住んでいる。妻富美代さんは当時の戸梶さんの部屋のあたりで花を植え、水をやっている。 「返事しないからいないおもてました。ちょうど成人式のころやったから実家行ってはって、十六日の夜の十一時くらいに帰って来はったんやってね。親御さんが『もう一日泊まり』って言いはってんけど、学校で行事があるから言うて帰って来はったらしいね」。 「(戸梶さんの)隣の人は主人が『どないや?』って聞いたら『痛いから助けて』っていう声がかえってきて、それでなんとか助け出せたんですが。今阪大の院にいってはりますわ。でも戸梶さんは声もなくて、てっきりいない思ってたのに、お友達が『ゆうべ帰ってる』って言いはって、それで二階の(当時)留学に行ってた子の部屋から畳をはがして、床どけて、手が見えて……。一ミリでもすきまがほしいし、でも布団があつくて、切りにくくて……。しかもまた近くでガス漏れがしてたけど、なんとか出さないとねえ」。 岩木さんは命日になれば、当時の戸梶さんの部屋のあたりに花を供えている。口からはしきりに「かわいそうやったね」の声。「ほんまに死にに帰るようなもんやったね」。跡地は当分は空地のまま駐車場にしておくという。 |
2階が前へつんのめってきた
立花荘(神戸市灘区高徳町1−4−8)
【写真上】被災直後の立花荘。(95年1月18日撮影) |
稲井健太郎さん(神戸大・医・当時四年)が被災した立花荘は南北に二棟あり、稲井さんは南側の棟の一階に住んでいた。当時は二階が一階に落ちてきた上に、北側の棟も崩れてきて、稲井さんは二重に下敷きになった。 立花荘の向かいに住んでいた武本典三さんはつい最近元の場所に新築の家を建て帰って来たばかりだ。当時は立花荘同様に全壊、道路がふさがったという。「道の先までぐわあっと(家が)流れてましてね、人が通るのにえらいことやった。一階はもうぺしゃんこで、二階も半分つぶれとったんちゃうかな。お父さんとお母さんが来はってね。2、3日のうちだったと思うよ。あともう二方来はったけど、気の毒でしたわ」。 酒店を当時から経営している立花正二さん(68)は当時の大家さん。「二階がドーンと前へつんのめってきて、後ろからもかぶってきてて。僕は逃げ出すんで精一杯でした。当日死にはったんでしょうな、僕がわかったのは明くる日の夕方ですわ」。 「学生さんは生活のリズムが私らと違うから家賃払う時に二言三言話すだけで、あんまり話ししないんですが、ちょうどその頃は、四月、いや今月いっぱいでここ出て大倉山の方へ宿借りる言うてましたのに。いやあ、人の運命なんてわからんもんですねえ」。 現在は酒店を当時の立花荘の場所に移している。空いたところはバラックの小屋が1つあり、あとは更地になっている。今のところ新たにアパートを建てる予定はないという。 |
「木造2階建ては、ぐちゃぐちゃになってしまいました」
東神荘(神戸市灘区神ノ木通3−4−2)
【写真】隣に住む大倉さんによると、遺族の方が何度か見えたという |
傅建鴻さん(神戸大・工学部留学生)が被災した灘区神ノ木通にある東神荘は、木造二階建ての文化住宅だった。当時から隣に住んでいた大倉さんは「あそこは完全にぐちゃぐちゃになってしまっていました。何人かが担架で運ばれるのが見えました。遺族の方だと思うんですが、何度か来ていたようです。」と話してくれた。 跡地はがれきを撤去してから全く手をつけていない様子だった。 |
うめき声がして…近くの人が救助に向かった
斉木荘(神戸市灘区徳井町4−3−7)
【写真左】斉木荘跡には三階建ての新しいマンションが建っていた。 |
灘区徳井町の母志斌さん(も・しびん=神戸大・当時自然科学研究科博士前期課程)が被災した斉木荘は木造二階建てで、昭和四十八年に完成。昭和五十五年ごろ改装したという。入居者は独身男性が多かった。 近所のだばこ店の店主は、「激震で完全に倒壊、道もふさがるといった状態だった。うめき声がして近くの人が救助に向かった」という。 隣の大家さんの一家は大阪に転居したという話を聞き、電話をかけたところ、「母は亡くなりました。家は全壊でした」という返事がかえってきた。大家さんの斉木花子さん(当時84)も地震で亡くなったという。 去年三月末に三階建てのワンルームマンション『フローラル六甲』が建った。学生も入居しているという。 |
「犠牲者を出してしまったことが残念でなりません」
浜吉文化住宅(神戸市灘区中郷町3−1−22〜24)
【写真】ここには鉄筋の住宅が建築される。 |
灘区中郷町の浜吉文化住宅では、清水倫行さん(神戸大・工・当時四年)、橋本健吾さん(医・当時一年)の二人が亡くなった。浜吉正章さん(66・無職)は、その日のうちに救助のため、駆けつけたという。 「清水さんは四年生でずっとうちにいたし、橋本さんはケガをしたときに、私が病院へ連れて行ったことがあったので、お二人ともよく知っていました。自動のこぎりで柱を切ったり、二階を剥がしたりして必死で救出にあたりましたが、なかなか思うように進みませんでした。犠牲者を出してしまったことが残念でなりません。あそこには新しく神大生のために鉄筋の住宅を作りたいと思います。 |
友達がかけつけて救助したけれど…
大日荘(神戸市灘区桜ヶ丘6−10)
【写真】ほこらの向こうの大日荘跡は、空き地のまま。 |
篠塚真さん(神戸大・理・当時二年)が被災した大日荘は木造二階建てのアパートだった。二階が一階になり、篠塚さんはその間に挟まれて亡くなった。大日荘では他にも一人が亡くなっており、当時の悲惨さを窺わせる。その当時の状況を大谷さん(63歳・桜ヶ丘自治会長)に聞いた。 「大日荘ではその日はパニックでした。五、六人の神戸大生が救助に来ていたのを覚えています。篠塚さんの友達も来てて助けてましたが、篠塚さんが救出された時はすでに亡くなっていました。私も三回消防署に行って大日荘に来てくれるように頼んだんですが、順番だからと言って断られました。大日荘では、最後に出された方は十七日の午後四時までかかったんです。私は他の所も回らなければならなかったので、大日荘は学生さんにまかせました。大日荘では神戸大生が中心になってやってくれてました。」 現在、大日荘があった場所は更地となって、大日如来だけが残っている。 |
自衛隊が救出。遺体はふとんにくるまれて
石本文化(芦屋市三条南町3−7)
【写真】空き地となった石本文化跡。97年4月撮影。後ろに見えるのはJR神戸線の架線の鉄柱。 |
廣瀬由香さん(神戸大・法・当時四年)が被災したのは木造二階建てのアパート。外壁はトタンでできているところもあった。当時、JRの線路は『く』の字型に曲がり、また阪神高速が五百メートルにわたって陥落した場所もすぐ近くにある。 山本東淳さん(61)は廣瀬さんが住んでいたアパートの隣の一戸建住宅に住んでいた。現在は改修工事も終わり、もとの家に住んでいる。改修にはほぼ一軒建てるのと同じくらいの費用がかかったという。「もともと国道二号線の近くは古い建物が多かったからね。」「横揺れが少しあって、縦にグワングワンと揺れて、下からは押し上げ上からは物が落ちてきた感じやった。ちょうど活断層の中心部やったんかも知れんね。」「自衛隊の人がすぐ来てくれはって救出活動したんやけど、遺体がふとんにくるまって転がってて…無残なもんですわ。死者がどんだけあったかわけわからん状態でねえ。今になって行政とかで〇〇の想定なんていってるけど本番になったらどれだけ活かせるものか。トランジスタのラジオ持ってても肝心の中心地の震度もなかなかわからないしねえ。とにかくひどいもんですわ、言葉ではよう言い表せんなあ」。 アパートのあった所のすぐ近くでは去年秋にJR甲南山手駅が新設された。跡地は現在更地になっている。(訂正=誤って隣接する土地の写真が掲載されていました。ご家族から申し出がありましたので、提供された写真に差し替えます。1997年11月2日編集部入力) |
北側に倒壊して、4階が1階に
マンションN(西宮市安井町5−20)
【写真上】震災当日のマンションN(写真=共同通信 95年1月17日撮影) |
加藤貴光さん(神戸大・法・当時二年)が被災したマンションNは鉄骨の五階建てで、一階は当時ガレージだった。三階まではぺしゃんこの状態で、四階が一階の位置に来ていた。二階の加藤さんは即死だったという。 隣の一戸建て住宅に住んでいた山上多津子さん(57)は当時マンションNが自分の家の二十センチ手前まで来ていたという。「ドア開けたら四階の人と顔が会うた感じでした。三階以下は見えなかったね。前から危ないという話は言うててんけどねえ。北側に向けて倒れてきてんけど、マンションの部屋の中も坂になってて、南側にはい上がったって(住んでいた人が)言うてはりましたわ」。「残念やったね。男の子やったね。顔は知らないけど、お父さんと一緒に住んではって、その時は出張で一人やったって聞いてます。あとで女の子が来て泣いてらしたわ。今もときどき学生さんが来られるんやけどねえ」。 現在は更地になっているが、フェンスの所には『マンションN』の看板がそのまま残っている。新しくマンションが建つかどうかはまだわからないという。 |
大家さんも亡くなった
増田荘(西宮市中殿町6−30)
【写真】増田荘の跡は空き地になったまま。 |
曹センさん(神戸大・農学研究科)が被災した西宮市中殿町6−30の増田荘は現在、更地となっている。木造二階建てだった増田荘は、地震で二階が一階になり、曹さんを含む二人が亡くなった。 当時から増田荘の向に住む松本美富さん(52)に十七日を振り返ってもらった。 「私の息子も増田荘に向かわせましたし、増田荘では、その日の内に救助されていました。でも、大家の増田さんも亡くなられてねぇ。本当に辺りは悲惨な状況でした。」 増田荘があった場所は現在、市の土地になっている。 |
門だけは、当時のまま見つめている
井上純一方(神戸市東灘区西平野字平野8)
【写真上】住んでいた1階はすべて押しつぶされていた。(95年6月撮影 今英男さん提供) |
今英人さん(神戸大・自然科学研究家博士前期課程・当時一年)が被災した井上純一さん(62歳)の家の一部は、現在駐車場となっている。当時、今さんは木造二階建ての一階に住んでいたため、地震で二階が一階になり、圧死した。住んでいたのは学生二人で、今さんが亡くなった。 九十六年一月、一部に駐車場ができ、井上さんの家も新しく建て変わっていた。 だが、井上さんの家の門はそのままだった。 |
机に向かったままの姿で…
上原肇方(神戸市東灘区御影石町4−19−12)
【写真】藤原さんは、3日目に瓦礫の下から出された。 |
東灘区御影石町の上原肇方に住んでいた藤原信宏さん(神戸大・営・当時四年)が被災したのは木造二階建てのアパートだった。二階が一階になり、圧死だったという。当時の状況を近くで造園業を営む福山忠雄さん(55)に聞いた。 「今の学生には珍しく藤原君はよく勉強していてね、夜遅く帰ってきても机に向かって勉強していたのを知っています。」 「藤原君は、二日目にご両親が来て、まだ息子から連絡がないからということで、調べてみると埋まったまま亡くなっていたんです。机に向かって亡くなっていたそうです。」 現在、更地である。そして、そのすぐ横を電車が通っている。 |
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