1996年1月17日発行『神戸大学NEWS NET』紙面より
Photo特集

激震のあの日から一年
  ドキュメント神戸大学'95

Photo  阪神大震災は、神戸大学にも大きな犠牲をもたらした。亡くなったのは、学生三十九人、教職員二人、名誉教授一人、生協職員二人。負傷者は教職員・学生あわせて五百五十六人に達した。一方、建物には大きな被害はなく、火災も発生しなかったものの、実験機器や材料は、冷凍庫の停電などで多くの資料が失われた。設備の復旧費は約五十五億円以上かかるものと見られている。
 附属病院への緊急受け入れ患者数は千九百二十四人。うち、亡くなった方は七十三人。大学構内に受け入れた被災者は、ピーク時で、国際文化学部に千六百人。工学部に百二十人、農学部に百六十人、自然科学研究科棟に七十人、発達科学部に五十人、附属住吉小に二百五十人、附属病院に二百五十人という数にのぼった。
 発災以来、大学は研究機関として地域の公共施設としての使命をはたしてきたが、これも、全国の大学、大学生協の救援や、学生ボランティアの支えがあったからこそであった。この一年の神大の動きをふりかえってみる。

【写真:灘区鶴甲からみた神大キャンパスと神戸市街地。大学本部のむこうは下宿街のある六甲町から立ちのぼる煙か。(95年1月17日午前7時すぎ 灘区鶴甲四の柴藤哲也さん撮影)】

●1月17日 午前5時46分
  町並みが波打った 倒壊そして炎上

◎午前5時46分、激震。Photo
●神大生協カフェリアの田中昭雄店長は、開店準備のため国際文化学部の門衛所前にバイクで到着。突然グラッと横揺れ。大阪方向にピカッと稲光が走る。そしてグラッグラッと、大学前の住宅の家並みが波打つように揺れた。『なんやろうと思った時にはバイクごと倒れてました』

●農学部・保田茂教授は、研究室で徹夜明け。突然の揺れでとっさに机の下に。停電。余震がおさまるのを待って薄暗い研究室を見ると、スチール製の書架が振り飛ばされ、本とガラスが散乱。『仮眠場所に重い本棚が飛んで来ていて、危ないところでした』ふと気が付くと、窓の外に広がる神戸市街の、そこここから赤い炎が立ち上がっている。

【写真:テレビのヘリ中継には、炎上する灘区六甲町が映し出された。山手から浜側を見る。時報の下はJR六甲道駅。炎がみえるのは下宿が密集するあたり。(95年1月17日午前8時50分=NHKテレビから)】

●午前6時5分、医学部附属病院に最初の患者搬入。頭部外傷。6時半ごろから被災救急患者が殺到。休日当直勤務の外科、内科医員各1名と研修医4名が担当。(医学部記録誌)

●午前6時58分ごろ、黒田庶務部長が、灘区高尾町の自宅から六甲台本部に到着。学内で被害が出ていないかの確認開始。『研究室から出火していないか、学内や附属病院でケガ人が出ていたらどうしようかということで頭が一杯』大阪市在住の鈴木学長になかなか電話がつながらない。

Photo

●午前9時前、保田教授は、農学部玄関前で同僚と顔を合わす。一様に緊張の面持ち。空を厚くおおう煙をぼうぜんと眺めるのみ。学舎内を歩くと、水道管が敗れたらしく、おびただしい水が降り注ぎ、ガスやエーテルの匂いも漂う。(『大震災一〇〇日の記録』より)

●午前9時前、住吉寮の仲間と友人の安否を確かめにまわっていた本紙・元岡努記者は、灘区六甲町の西尾荘にたどり着く。一階が崩れ落ち、二階が一階に。そのすぐ後ろ10mほどのところまで猛火が迫っている。三人の仲間はとり残されているという。しかし、これ以上手がつけられない。『なんでや。なんでや』と泣き崩れている者。そして十五人ほどの神大生は無言で立ち尽くしている。消防車は来ない。

【写真:国際文化学部(旧教養部)2階にある国際・教養系図書室の開架閲覧室(95年1月17日撮影=附属図書館提供)】

Photo ●午前9時前、文学部南の生協ランス店責任者の西村稔祐職員は、心配で店に出勤。学生が次々に大学に上がってきて店の前に集まり始めている。停電で自販機も停まり、水も出ないので食料などの販売を各店さみだれ的に始める。10時ごろには、あらかたの、菓子やペットボトル飲料が売り切れ。

●9時半ごろ熊谷事務部長が人文・社会学系図書館に到着。惨憺たる状況。書架閲覧室などでは多数の書架が転倒。多くの図書が落下。

●午前9時40分ごろ、行政電話で、黒田庶務部長が文部省に連絡。『学内では人的被害なし。火災も発生せず。附属病院患者にも被害なし』。ただ、震源に近い淡路島・岩屋の内海域機能教育研究センターにはどうしても電話が通じない。

【写真:倒壊した阪神高速(東灘区深江本町=95年1月17日午前9時半 ニュースネット撮影)】


神戸大学NEWS NETホームページ「震災特集ページ」へ


Photo  【本紙第一報】  1月17日午前5時46分、近畿地方を襲った兵庫県南部地震で、避難場所となった神大には、学生や付近の住民約三百人が避難した。構内の建物には大きな被害はない模様。
 六甲台にある自然科学棟と遺伝子研究施設などでは自家発電で停電は免れ、水道も翌日まで使うことができた。神大では水を求めてバケツやペットボトルを持って歩く人の姿が目に付いた。学内の研究室や図書館などでは、本棚などあらゆるものが倒れ落ちるなど、かなり荒れた状態。
 午前9時過ぎ、本や食品が崩れ落ちた状態のなか、神大生協ランスはいちはやく店を開けた。レジの代わりに電卓で計算。学生や近所の人はカップめんや菓子などを買いこんでいた。付近の公衆電話は長蛇の列で、一時間あまり待つ状態。 【写真:医学部附属病院では、廊下での救急診療が始まった。(95年1月18日撮影=医学部提供)】

 自然科学棟七階にいた人は『揺れた瞬間、机の下にもぐったら、左右の棚やコンピュータが落ちてきた』。木造2階に住んでいた学生は『下宿が崩れ、柱に1時間ほどぶら下がっていた』『建物がつぶれ、地震後4時間経って救い出された』など恐怖の声が聞かれた。
Photo
●昼前、大学本部の庶務部フロアに集まったメンバーで『神戸大学兵庫県南部地震災害対策本部』を設置。

●夕方には、国文生協食堂に避難してきた学生、市民が二百人を超える。『下の新在家のほうからどんどん人が大学に上がってくる。お年寄りや家族連れが多い。電気が通じて暖房も入っていたので食堂の中に入ってもらった。豚まん、オニギリと、あるものは売った』と田中店長。

【写真:本部に設置された神戸大学災害対策本部。学生や教職員の安否確認に追われた。(95年1月28日 ニュースネット撮影)】

[注](クレジットのないものは、神大本部報道資料、凌霜会資料、UNN関西学生報道連盟配信項目などによる)


【神戸大学の震災の記録1995-1】
神戸大学NEWS NETホームページ「フロントページ」へ
神戸大学NEWS NETホームページ「震災特集ページ」へ

■神戸大学の震災の記録1995 ('95/1/17)
       同       ('95/1/18〜)
       同       ('95/2/6〜)
       同       ('95/4/1〜)
       同       ('95/9/2〜)
■神戸大学の震災の記録1996 ('96/1/17〜)
■神戸大学の震災の記録1997 ('97/1/10〜)
■神戸大学の震災の記録1998 ('98/1/9〜)
■神戸大学の震災の記録1999 ('99/1/14〜)
■神戸大学の震災の記録2000 ('00/1/17〜)

本ページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。著作権は神戸大学ニュースネット委員会ならびに関西学生報道連盟に帰属します。