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激震のあの日から一年
  ドキュメント神戸大学'95(95年2月6日〜)


二千四百人に下宿被害
  ボランティアの学生が全国から神戸へ

●2月6日

●西宮市の浜田公園に医学部救急医療団の救援センターが設置される。

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●2月10日

●10日現在、わかっているだけで自宅や下宿が全壊した学生が六百十八人、半壊が六百三十七人、一部損壊が千百三十四人、焼失が十三人の計二千四百二人にのぼることが明かに。神大生の約6割が災害救助対象地域に住んでいた。(本紙)

【写真:震災から3か月。焼け落ちた西尾荘跡には、花が供えられた。焼けた瓦と「鈴木伸弘 安らかにお眠りください」の札が。(95年3月19日=灘区六甲町 ニュースネット撮影)】

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●2月11日

●兵庫区雪御所町にある雪の御所公園内に、医学部救急医療団が仮設テントの救護所を設置。

●2月11日

●附属病院の中央診療棟、外来棟でガス復旧。


●2月13日

Photo ●京大、京教大、大教大、などから図書館復旧のために応援の職員が神大入り。17日まで、十一大学から来神。(図書館報)

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●2月15日

●鈴木正裕学長が定年退官。
九一年、法学部教授から学長に就任。16日から、医学部の西塚泰美教授が、四年の任期で就任。(本紙)

【写真:高架が落ち、コンコースが押しつぶされたJR六甲道駅(95年1月19日 ニュースネット撮影)】

●2月20日

●自衛隊に替わり、大阪ガスの復旧工事資材が六甲台グラウンドに。(〜4月10日)
●供給が止まっていたガスが、六甲台地区の一部で復旧。(完全復旧は3月24日)

●2月23日
◎震災研究会が発足声明

●教官有志が、専門分野を越え研究、交流を進める『阪神・淡路大震災の発生、被災、復興と防災にかんする総合的研究会(神戸大学)』をスタート。略称は『神大震災研究会』。(本紙)

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●2月26日

Photo ●交通機関マヒのため、県外からの受験生のために前期入試会場を阪大、岡山大にも。日程も一日ずらす。

●3月8日
◎ボランティア来神二百人超える

●学生震災救援隊に応援来神する学生が二百人を突破。山口女子大の塩田直美さん(22)が二百人目としてクラッカーで歓迎される。これまで、九州産大、上智大、京大、拓大、札幌学院大などから参加。(救援隊通信)


【写真:願書が届き始める(法学部=95年1月27日 ニュースネット撮影)】

●3月9日

Photo ●前期日程で二千四十七人が四倍の倍率をくぐり抜け合格。(本紙)

●3月11日

●震災救援隊が被災者の子供達に勉強を教える寺子屋活動が、活動を始めて1カ月を迎える。(救援隊通信)

【写真:後期日程入試(六甲台正門=95年3月13日撮影=医学部提供)】

●3月13日

●後期入試も、阪大・岡山大の会場を増設。十二日の予定を一日繰り下げ実施。

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●3月17日
Photo ◎合同慰霊祭行われる

 六甲台講堂で「神戸大学犠牲者合同慰霊祭」が二千人が参列して行われた。
 西塚泰美学長が「悲しみを乗り越え、神戸大学を世界に誇る教育と学術・研究の中心として復興させることが尊い命を失われた方々へのはなむけだと信じます」と式辞を述べた。
 故・鈴木伸弘さん(工・三)の友人で、学生代表の神谷猛士さん(同)は「地震のこともあなた方がもういないということも未だに信じられずにいます。志半ばにして突然旅立ってしまったあなた方に代わり、残った学生はあなた方の分も精一杯やっていこうと決意しています。」と述べた。
 遺族代表の故・森渉さん(法・四)の父・茂隆さんが「私達遺族の心には春は巡ってきません。一人一人の死が決して無駄でなく、必ず豊かな実を結ぶことを信じ、残された私達がなすべきことは何かということに今一度思いを新たにしてこれからの人生を歩んでいきたいと願っています」と述べ、会場からは悲しみをこらえきれない遺族・友人のすすり泣きの声がもれた。その後、参列者一人一人が菊の花と共に犠牲者の冥福を祈った。(本紙)

【写真:兵庫県南部地震 神戸大学犠牲者合同慰霊祭(95年3月17日六甲台講堂 撮影=大学本部)】


《遺族代表あいさつ   遺族代表 森 茂隆》  本日ここに謹んで震災の犠牲となられた神戸大学在学中の39名の学生の方々、ならびに教職員2名の方々、あわせて41名の尊い御霊(みたま)に対して心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 特にこの中には遠く海外からの留学生7名の方々が含まれており、この方々に対して衷心より深く哀悼の意をひょうするものでございます。また、同時にこの度の阪神大震災で犠牲となられた5400有余名の御霊に対しても心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 さて、悪夢の1月17日から早や2か月経ちました。季節はいつしか春の盛りを迎えようとしています。しかし私たち遺族の心に春はめぐってはきません。
 思い返せば1月17日午前5時46分、堺の自宅で私は今まで経験したことのない衝撃に叩き起こされ、思わず家内と手を握り合って座り込んでしまいました。この時はまだ神戸を中心とした被害の大きさは勿論(もちろん)、同じこの瞬間に自分の息子がガレキの下敷きになったとは夢にも思いませんでした。
 私の次男は神戸の東灘区に下宿していたのでしたが、17日は結局彼からの電話連絡はなく、翌18日、私は自分の足で現地まで歩いていって何時間もかけて遺体を発見いたしました。息子の部屋は木造アパートの一階で、あの活断層の真上辺りでしょうか。一瞬にして崩壊したものと思われます。恐らく、前夜遅くまで卒業論文の仕上げに精を出し、明け方近く寝入ったところだったのでしょう。ベッドから動いた形跡は見られませんでした。この生と死を分けたものは一体何だったのでしょうか。目の前の41名の写真がなにかを語りかけているように思います。お一人お一人にとって、あの一瞬の状況は様々なものがあったに違いありません。
 運命と一口に言うにはあまりにも残酷です。ましてや偶然の結果などとは決して肯定されるべきではありません。或(ある)いは、宇宙を支配せる神の意志ではないかと畏怖の念をいだく方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それも又単純に納得できる者ではありません。
 この2ヶ月余り私は「どうしてですか」「なぜですか」と天に向かって問い続けましたが答えはまだ返ってきません。妻は悲しみの思いを拙(つたな)い歌で次のようにつづりました。
 「天国(みくに)とはどこですか どこですか この母に新しい住所TEL教えて」
 残された家族遺族にとって、ああであったらこうであったらとあきらめきれない思いが残るばかりです。
 2月1日付読売新聞に「押しつぶされた夢、悲劇のキャンパス」という見出しで犠牲となった、神戸大学学生全員の写真と、プロフィルが紹介されていました。
 一人一人には、前途洋々たる未来が確実にあったのです。21世紀の世界をリードしていく夢と希望を持って学んでいたのです。それが一瞬にして奪い去られてしまいましした。41名の死は実に世界の損失といっても言い過ぎではないと思います。
 しかし、2ヶ月が経った今、私達遺族がいつまでも涙の中に明け暮れているのは、天国の御霊にとって決して本意ではない筈です。神戸大学に学び働いた真理の探求者らしく、「この現実をきびしく受けとめて前向きに生きてほしい」と残された私達に語りかけているように思います。一人一人の青春そのものであった神戸大学、そして美しい神戸の街が一日も早く元の姿を取り戻し、活気ある学生生活が返ってくることを願っているに違いありません。
 聖書の中に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という一一節があります。一人一人の死が決して無駄ではなく、必ず豊かな実を結ぶことを信じ、そのために残された私達がなすべきことは何かということに今一度思いを新たにしてこれからの人生を歩んでいきたいと願っています。
 最後にあたり、あらためて犠牲になられた41名の神戸大学学生、教職員の方々、そして5400有余名の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げ、同時に、一日も早い被災地の復興を願って遺族のことばとさせて頂きます。


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●3月24日
◎卒業式〜被災の六人も

●午前11時から、六甲台講堂で平成六年度卒業式が行われ、震災で亡くなった六人を含む二千六百八十八人が卒業。(本紙)

●3月26日
Photo ◎映研前部長の追悼上映会

●震災で犠牲となった神大映画研究部Rick'sの前部長、中村公治さんの追悼上映会が六甲台講堂で行われた。中村さんが生前監督を務め、完成を楽しみにしていた作品と一緒に、過去に彼がクランクアップした三作品も上映。
 中村さんは灘区六甲町の下宿が倒壊、友人が救助しようとしたが、迫る炎に力つき亡くなった。(本紙)

【写真:中村公治追悼上映会(95年3月26日六甲台講堂 ニュースネット撮影)】


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断腸の思い    前学長 鈴木正裕

 大震災でもっとも辛かったこと、と問われたら、躊躇なく39人もの学生たちの尊い命を散らしたこと、2000人を超える被災者を受け入れたが、その救済にあたる教職員自身が被災者であったことの二つをあげたい。
 テレビのニュースで「灘、東灘の古い木造家屋は全滅に近い状況」と聞いて、学生諸君に犠牲者がでたのではないかと案じていたが、大学本部にも3日目ぐらいから、時に具体的な名前を伴って死者の数が入りだし、しかもその数は聞くたびに増える一方であった。教師としてはいてもたってもおれない断腸の思いであった。
 被災者をお世話した教職員は、自分の住まいが倒れ、時には全焼していた。彼らの目はたちまち落ちくぼみ、顎はとがり、(風呂に入れないので)どす黒い顔色に変わった。最後まで体育館に残られた数家族が、11月の末、厚い感謝の言葉を残して去られたといて、涙もろくなっていた私の目は、また濡れてしまった。




【神戸大学の震災の記録1995-3】
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■神戸大学の震災の記録1995 ('95/1/17)
       同       ('95/1/18〜)
       同       ('95/2/6〜)
       同       ('95/4/1〜)
       同       ('95/9/2〜)
■神戸大学の震災の記録1996 ('96/1/17〜)
■神戸大学の震災の記録1997 ('97/1/10〜)
■神戸大学の震災の記録1998 ('98/1/9〜)
■神戸大学の震災の記録1999 ('99/1/14〜)
■神戸大学の震災の記録2000 ('00/1/17〜)