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激震のあの日から一年
  ドキュメント神戸大学'95(95年9月2日〜)


 悲しみの淵から、
     復旧、復興へ‥‥

●9月2日

●神戸国際会議場で、医学部主催のシンポジウム『これからの災害・救急医学−大震災の経験から−』開催。

●9月7日
Photo ◎どうなる避難所

●20日、神戸市は市内に約二百五十箇所あった避難所への食事の配給を止め、十数箇所の「待機所」に集約することを決めた。
 灘区には現在七百人あまりの避難者がいるが、定員を三百人とした待機所が一カ所あるだけ。以前の避難所が『旧避難所』として二十六カ所残っている。神大国際文化学部体育館もその一つで、9月7日現在で九世帯十七人が生活している。
 ある男性は、「ここまで我慢したのに、今更遠くの仮設には行きたくない。できれば学内の空地に仮設を建てられないか」と話す。
 一方、大学側は、「すべて市の決定に従う。あくまで被災者と市との関係だ」との返答。相変わらず市に一任との姿勢を崩さない。避難所を閉鎖、集約した神戸市、出ていけない被災者、市の意向に添うという大学側。三者にらみ合いはいつまで続くのか。(本紙)

【写真:一王山仮設住宅。後ろの丘の上には工学部が見える。(96年1月6日 ニュースネット撮影)】

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●9月20日
Photo ◎避難所の風呂を解体

●国際文化学部グラウンドの北西隅の避難所の風呂『出会いの湯』が解体。サッカーゴールに青いビニールシートをかけた屋根、煉瓦づくりのカマドの風呂は、多くの被災者をくつろがせてきた。

【写真:ボランティアたちの手によって作られた、国際文化学部グラウンド北西隅の風呂(96年9月撮影)】

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●9月25日
◎農学部の避難所が解消

●農学部の被災者が退出。一時は会議室などに百六十人が避難していた。

●9月26日
◎学部越え震災研究集会

●震災の教訓を都市の防災に生かそうという学部を越えた震災研究集会の一回目の集会が、『活断層と地震』をテーマに神大で行われた。

 集会では、大学教育センターの波田重熙教授が、「野島断層以外の、六甲山系の断層も活動していた」と報告。理学部の宮田隆夫教授は、電柱の傾きなどから市街地直下の活断層の位置を推定したことを報告。工学部の沖村孝助教授は、山腹の斜面の崩壊と宅地の地盤の変化について述べた。

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●10月27日
◎ボランティア2団体が合同公開討論会

●学生震災救援隊と総合ボランティアセンターの公開討論会『次のステップのために、今までを振り返って』が開かれる。(救援隊通信)

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●10月30日
◎震災文庫コーナー開設

●六甲台の人文・社会科学系図書館に震災文庫が開設された。震災直後からの資料収集を学内外に呼びかけていたもの。(本紙)

【写真:震災文庫には、書籍だけでなく、告知ビラや大学新聞なども収集されている。(附属図書館提供)】

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◎『大震災の軌跡』を刊行

●神大震災研究会が、『阪神大震災研究1〜大震災一〇〇日の軌跡』を刊行。

●10月31日
◎第2回の震災研究集会

●瀧川記念学術交流会館で第2回震災研究集会が行われた。法学部の久米郁男教授、国際文化学部の大月一弘教授が報告。参加者約百人のほとんどは教職員。学生はまばら。(本紙)

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●11月8日
◎工学部グラウンドでプレ六甲祭 六甲道駅被災で会場移す

●例年はJR六甲道駅前で行われるプレ六甲祭は、メイン六甲ビルが全半壊して、一部取り壊し工事中のため、今年は会場を工学部グラウンドに移して行われた。(本紙)

●11月11日
◎復興パワーで六甲祭

●十一、十二の両日開かれた第十六回六甲祭。初日に小雨がぱらついたものの、二日目は快晴に恵まれ、多くの人でにぎわった。
 ステージ物はあいかわらずの盛況ぶり。二日目の六甲台グラウンドの鶴久政治コンサートのメインステージに観客が押し寄せ、模擬店百四十二店がガランとするほど。一方、唯一といっていい震災関係の催し、大谷昭宏さんらを招いた、震災報道がテーマの講演会『マスコミを斬る』は、観客が二十数人という少なさだった。
 後夜祭は、二日目午後五時から前庭ステージで開催。暮れなずむなか、応援団が『商神』などを合唱。チアリーダーの胸には、震災で亡くなった応援団長の高見秀樹さんの遺影が。

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●11月25日

●課程『厳夜祭』が開幕。元神戸新聞編集委員・酒井道雄さんの講演『続神戸発 阪神大震災以後』や、各会派の市議会議員を招いてのフォーラムなどが行われた。

●11月30日
◎すべての避難所が解消

Photo ●学内で最後まで被災者を受け入れていた、国際文化学部の第2体育館の被災者・三家族八人が、仮設住宅などへ移転。発災直後は、国際文化だけで千六百人あまり、学内全体で二千五百五十人の被災者が避難していたが、神大内のすべての待機所が役目を終えることに。
 学内には、お礼の掲示『神戸大学のみなさまへ』が貼り出された。(本紙)
【写真:一時は千六百人を超える被災者がいた国際文化学部避難所(95年1月27日撮影)】

『神戸大学のみなさまへ』(全文)
 私たちは震災以来、神戸大学・体育館で避難生活を送っていましたが、おかげさまで11月30日をもって避難所から引き上げることができました。
 震災に遭ってから、充足感のもてない不安な日が過ぎ先が見えない苛立ちばかりが先走っていましたが、ようやく仮設住宅に入居する事が叶い、長い避難生活に終わりを告げ、落ちつきをとりもどしたところです。
 あのとき、一瞬にして神戸の街は崩壊。見渡すかぎり家屋が微塵にも叩きつぶされ、私たちは家を失い、家族を失い、平穏な生活を奪われました。私たちは水と食料を求め廃墟の街をさまよい、石屋川市バス車庫に緊急避難し、余震におびえ、落ちつき先もなく途方に暮れていたところ、大学は私たちが体育館へ避難することを受け入れてくださいました。神戸大学の皆さんは、着の身着のままの私たちのため、毛布や食料など救援物資の調達などに奔走していただき、物心両面から私たちを支えてくださいました。私たちは学生の皆さんが使用する体育館を使い大変ご迷惑をお掛けしたにも関わらず、多くの学生さんが私たちを優しく励ましてくださいました。生涯忘れることはできません。長い間お世話になり心からお礼申し上げます。私たちが自立への道を開くことができたのも、ひとえに皆さまの支えがあればこそでした。本当にありがとうございます。
 1995年11月30日 体育館・避難所 一同

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◎大学災害対策本部が解散

●国際文化の避難所解消をうけて、大学本部にあった災害対策本部が解散。

●12月10日
◎アメフット1部復帰逃す

●西宮球技場で行われた関西学生アメフット秋季リーグ入れ替え戦の、神大(2部・1位)と同大(1部・7位)の対戦は、残り42秒の土壇場で同大が5−8と逆転。1部復帰ならず。(本紙特報)

●12月17日
◎男子ラクロス全日本準V

●東京・江戸川区陸上競技場で行われた第6回ラクロス全日本選手権決勝男子で、神大は慶応に猛追したが7−6で惜しくも王座を逃した。神大は『がんばろう神戸』の腕章を巻いて出場。震災で下宿が倒壊したメンバーも。(本紙特報)

●12月27日
◎震災犠牲者六千三百八人

●兵庫県などは、震災で亡くなった人の数を、警察発表の数から災害弔慰金支給対象者を基にした数に変更。犠牲者は六千三百八人に。

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●1月5日
◎村山首相退陣表明

●村山首相が突然の退陣表明。『やることはやった』

●1月17日
◎震災から一年

●農学部大教室で特別講演会。多渕副学長の『震災と大学』、五百籏頭法学部教授の『震災と行政』、丸谷経済学部教授の『震災と経済』。


【神戸大学の震災の記録1995-5】
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■神戸大学の震災の記録1995 ('95/1/17)
       同       ('95/1/18〜)
       同       ('95/2/6〜)
       同       ('95/4/1〜)
       同       ('95/9/2〜)
■神戸大学の震災の記録1996 ('96/1/17〜)
■神戸大学の震災の記録1997 ('97/1/10〜)
■神戸大学の震災の記録1998 ('98/1/9〜)
■神戸大学の震災の記録1999 ('99/1/14〜)
■神戸大学の震災の記録2000 ('00/1/17〜)